どうも、りかちゅうです!平安時代には有名な文学作品がありますね。それは清少納言の書いた「枕草子」と紫式部の書いた「源氏物語」です。この二作は学校の教科書でも書かれていますね。それもあって、清少納言も紫式部も知名度は高いです。ただ、それ以外にもこの2人にはある話で有名なんです。それは2人の仲は犬猿の仲だったという噂があることです。これは歴史漫画にもネタになっています。なら相当仲悪かったのって?それを知るためにもこの記事にて話したいと思います!
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紫式部の性格
紫式部と清少納言が犬猿の仲と言われている原因は2人の性格が真逆だからです(それ以外にも理由がありますが)。だからこそ、まずは2人の性格から見ていきましょう!まずは紫式部から!
まず紫式部は知的で優秀です。漢詩がお得意だったとか。そのため、お父さんの為時は「紫式部が男だったら出世えきていたのに」と言っています。また、一条天皇からは「日本書紀が詳しい人」という評価を受けています。ただ、紫式部は内向的です。月を見てはネガティヴな思考になっていたとか。また、彰子の仕える時はこんな自分なんてと思っていたそうです。このように紫式部は何事にも奥手な性格でした。頭がいいなら自信を持てばいいのにとおもいますけどね。
清少納言の性格
一方で、清少納言は陽気で負けず嫌いだったそうです。なんか男性貴族とやり合う様子などを枕草子に書き残しているそうです。良くも悪くも出しゃばりと思えばいいです。そんな性格が男性から人気を呼んだそうですしね。また、自身の教養の高さを披露するような陽気さもあったそうです。それもあって、清少納言の周りは明るい雰囲気が漂っていたそうです。
ちなみに、その事実は枕草子にも書かれています。内容としては清少納言が男性貴族と和歌でやりとりする場面や漢詩の知識を使って周囲に称賛される場面など自分の成果を書いています!
2人は面識がなかった?
紫式部と清少納言はライバル関係のような扱いを受けますよね。2人とも仲が悪い的な?それは大げさです。
実は紫式部と清少納言は直接会ったことがないそうです。確かに、2人とも宮廷出仕をして女房という職をやっていました。ですが、紫式部と清少納言が宮廷に出仕をしていた時期は違います。清少納言が宮廷出仕していた期間は993年から1001年ころです。ちょうど定子がいたときですね。一方で紫式部の宮廷出仕は1005年から1012年ころです。このように、どう考えても2人の宮仕えの時期が違います。この時点で2人は面識がない可能性の方が高いですよね。これは噂と現実は違うということですね。
不仲説の元ネタは「紫式部日記」?
面識がないのに不仲って不自然ですよね。ただ、2人の不仲説の元ネタはあります。それは「紫式部日記」です。紫式部はその日記で清少納言のことをこのように言っています(現代語訳にしますね)。
・清少納言は自慢げで偉そうにしている人です。すごく賢いアピールしてるくせに漢字はよく見ると間違いもある。
・こんな風に自信家な性格だと絶対見劣りしてひどい未来が待っていることでしょうね。
・清少納言の常に「面白いことはないか」とちょろちょろ探し回ってる点が不満だ。
・誠実さを失った人の人生なんてろくなものじゃないわ。
これを見ても紫式部は清少納言の悪口を言っているのが分かりますね。ただ、この内容を見ても紫式部が清少納言のことを悪く言っているだけかと思われます。だって、後ほど話しますが清少納言は紫式部のことを悪く言った史料なんてそうないですからね?
紫式部が清少納言をライバル視していた理由
このように、紫式部はなぜか清少納言への当たりが強いです。会ったこともないのに言い過ぎではと思いますよね。ただ、それには理由があるのでこれから話しますね!
1.清少納言は超えられない壁と思っていたから
定子と清少納言たちが作り上げたサロンと彰子と紫式部たちが作り上げたサロンの雰囲気には大きな違いがありました。
定子サロンは知的で楽しい時間が過ごせる空間でした。定子が明るい人だから楽しい雰囲気になったんでしょうね。そのため、男性貴族たちからもたいへん評判でした。ですが。定子が亡くなり彰子サロンになってからは雰囲気が変わりました。なぜなら、彰子は大人しい性格だったからです。紫式部日記によると彰子はとても奥ゆかしい性格だったためサロン自体お堅くて楽しさに欠けていたようですそのため、男性貴族たちが女房たちと会話を楽しめなくなっていたらしいです。また、男性たちはつい定子サロンを懐かしんでいたそうです。
このように、男性たちは彰子サロンよりも定子サロンを好んでいました。楽しいサロンの方が活気がありますもんね。とは言えども、彰子に仕えている紫式部はこの事実は紫式部も面白くないです。それ故に紫式部からしたら清少納言は越えないといけない存在だというプレッシャーがあったのはもちろんのこと、清少納言に嫉妬心を馳せていたのかと思われます。
2.清少納言の性格に嫉妬していたから
紫式部の性格は内向的で控えめな性格です。あえて自分は頭が悪いフリをしていたこともあるくらいですから。一方で清少納言は明るくて自分の特技を披露しています。これを見ても2人は性格が真逆ですね。そのため、紫式部にとって得意顔で自慢する清少納言の性格が気に入らなかったと思われます。また、その反対に自分を押し殺して生活してきた紫式部からしたら思うがままに言いたいことを言ってしまう清少納言の姿に憧れていた可能性もなくもないです。それもあって、紫式部は「紫式部日記」にて清少納言のことを悪く言っていたのかなと思われます。
清少納言は紫式部をどう思っていたのでしょうか?
残念ながら清少納言が紫式部のことをどう思ってるかを明らかにする史料は残されていません。
まあ、面識が無いし清少納言の方が先に宮仕えしていたため清少納言は紫式部のことを特に何とも思っていなかった可能性はありますね。となると、2人はライバル関係というよりかは紫式部が一方的に清少納言に嫉妬していただけではありますね。
まとめ
予想よりも仲が悪くなかったということですね。まずお互い会っていなかったことには驚きでした。てっきり会っているから仲が悪かったのかと思っていました。歴史マンガなんて2人が会っているような感じに書いていますからね?ですが、いざ蓋を開けてみたら違いましたね。紫式部の一方的なヘイトとは思ってもいませんでした。しかも、面識もなにのにここまで言えるのは相当だなと。ただ、お互い賢いだけでなく天皇の妻に仕えていたからこそ紫式部は清少納言に対して何か思うことはあったのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう
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