どうも、りかちゅうです!「枕草子」の作者は誰ですかね?清少納言です。これは学校の古文の授業をちゃんと受けていたら一度以上は名前を聞く人材でもありますね。それくらい清少納言は有名な存在ですから。ただ、彼女は「枕草子」を執筆しただけではないです。実は一条天皇の妻こと定子の女房として活躍していたとか。お互い相当仲がよかったそうですよ。清少納言という通称は定子がつけたとか。このように、彼女は「枕草子」の人だけではないです。ですので、この記事にて彼女のことを話しますね!

清少納言のプロフィール

教科書に載ってる清少納言。有名ではあるものの、実態が分からない点もあります。ですので、まずは彼女のプロフィールから!

名前 清少納言(本名ではないですが)

生年月日 966年

没年 1025年頃とされています。正確なことは分かっていません。

備考

「枕草子」の作者です。それだけではなく一条天皇の最愛の人こと定子に仕えていたそうです。もちろん、清少納言は定子推しでした。初めて定子を見た時こんなにきれいな人は初めてという考えがあったそうです。

清少納言は本名ではない?!

小納言という役職を知っている人からしたら清少納言は本名ではないことは察せるかと思われます。ならば彼女の本名ななんなのって?ですので、彼女の本名について話しますね!

正確な本名は不明

清少納言が生きた平安時代では人前で本名を名乗るのは男女ともにタブーでした。そのため、オフィシャルな活動が少ない女性に関しては本名が残されることもありませんでした。だから、清少納言は清少納言という言われ方をしているのかなと。ただ、一説によると清少納言の本名は「清原諾子」といわれています。根拠は江戸時代に書かれた「清少納言枕草紙抄」にこの名前が残されていたからです。とはいえども、本当に彼女の本名かどうかはなんとも言えないそうです。

清少納言の名前の由来

清少納言は本名じゃなかったら「清少納言」はどういう意味なのと思いますよね?清少納言の「清」は清原姓から来ているそうです。また、「少納言」は当時の男性貴族の官職の1つです。となると、清少納言のお父さんか旦那さんが小納言だった可能性があります。ですが、ところが、清少納言の場合はお父さんも旦那さんも親族にも少納言になった人がいないらしいです。じゃあ何なのって?元ネタとなる人がいます!

元ネタは定子?

清少納言という通称は清少納言が仕えていた定子に命名されたという説があるそうです。なんか少納言という官職は天皇の側近のような仕事をするポジションだったとか。それで、清少納言を高く評価した定子が「私の少納言」という意味で名づけたのではないかと考えられています。では、なぜ定子はそんな発想をしたのか?

清少納言は色々あって宮中での仕事を一時的に休んでいたときも定子から出仕するよう何度も誘われるなど定子お気に入りの女房でした。その関係を見ても定子は清少納言には側近でいて欲しいという気持ちから清少納言と名付けたのかなと思われます。

清少納言の人生

以上が清少納言のプロフィールです。では、彼女はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

清少納言は966年頃に清原元輔の子として生まれます。清原元輔とは歌人として有名だったそうです。どうやは、彼は三十六歌仙の1人でありかつ後撰和歌集の編纂を行なった「梨壺の五人」の1人でもあります。また、清少納言のおじいちゃんも歌人だったとか。となると、清少納言は歌詠みの家系である清原家に生まれたってことですね。

2.清少納言の結婚事情

17歳の時に清少納言は結婚しました。お相手は花山天皇の乳母の息子こと橘則光で清少納言の一歳年上と言われています。それで、2人の間には息子が1人できましたがお互い性格が合わず離婚しました。とは言えども、離婚しても友人として関係を築いていたようです。ちなみに、清少納言は橘則光のことを兄のような存在と枕草子に記されています。それから清少納言は20歳くらい年上の藤原棟世と再婚するものの、再婚の時期は不明です。

 

3.定子に仕える

28歳くらいの時に清少納言は一条天皇の妻こと定子に仕えることになります。ちなみに、定子の女房には粒ぞろいの才女が選ばれました。清少納言もそのうちの1人です。清少納言は定子に忠誠を誓い生涯を通して彼女に仕えることとなりました。また、定子も献身的で教養のある清少納言のことを大層気に入っていたそうです。もちろん、清少納言と定子の仲の良さは枕草子に詳しく描かれていますね。

4.スパイ疑惑と枕草子の執筆

定子の女房として仕え楽しく生活していたものの、そのような生活も終わりを迎えることとなります。道隆が病没してしまったのです。そして道隆の息子こと伊周と道長は激しい権力争いを展開しました。最終的に道長が勝利したことで道長が優勢となり道隆ファミリーは衰退していったのです。さらに、清少納言は道長と内通しているという疑惑が出てしまいます。これにショックを受けた清少納言は元輔が住んでいた京都の郊外に籠居してしまいました。ただ、そこで何もしてないわけではないです。なんとその時に「枕草子」を書きていました。内容は定子の女房楽しく暮らした日々のことを書いていたそうです。

5.枕草子の反響と定子の元に戻る

清少納言の独特な感性と高い表現力が反響を呼び清少納言は当時を代表する女流作家として有名になりました。この影響で清少納言のメンタルは回復したでしょうね。また、定子から信頼しているという手紙をもらったため再び定子の元に戻る覚悟を決めます。その際に清少納言は定子が亡くなるまで彼女に付き従ったそうです。

6.退職後の清少納言

定子が亡くなってから清少納言は宮仕えを辞めました。それから、藤原棟世と再婚し小馬命婦という娘を産んだそうですが詳しいことは分かっていません。各地を転々とした後京都の郊外で隠棲するようになったいう説はあるそうです。ちなみに、娘の小馬命婦は女房として彰子に仕えたようです。

 

清少納言のエピソード

以上が清少納言の人生です。定子の死後以降は謎ですがそれまでは知名度のある女性です。そのため、エピソードも色々あります。ですので、彼女にまつわるエピソードも話しますね!

1.些細な美しさに気づける人

彼女の観察力の鋭さと詳細な描写が際立っています。

それは枕草子でも有名な「春は曙」という表現からも伺えるかと。これは春という季節の中でも微妙な変化を感じ取る繊細さを表現していたのかと思われます。このように。彼女は日常のささいな美しさに気づくことができる敏感な人物であったのかと思われます。また、彼女は自身の感情や思考を率直に表現することで知られています。「枕草子」でも彼女自身の喜びや悲しみ皮肉やユーモアに満ちたエピソードが数多く含まれています。

2.負けず嫌いで目立ちたがり屋

「枕草子」で清少納言は、「人に思われるのは1番でないとイヤ。2番や3番では嫌」と書いています。どうやら男女の仲だけではなく友人、知人も含めて1番でないと嫌という感情があったとか。また、清少納言は自分の培った知識を男性貴族に披露していたそうです。その時も自分は自信があるぞという心意気を見せていたそうです。それもあって、良くも悪くも男性とのやり合いは多かったそうです。

3.思いやりのある人でもあった

清少納言は相手やまわりのことを考えない事例を批判しています。いそがしいときに長居する客、酒を飲んで大さわぎする人、遠慮んく音を立てる人、厚かましい子どもとそれを注意しない親などを批判していたとか。その内容は「よろづのことよりも」という段にて書いているそうです。このような人たちを批判するのは思いやりの大切さを知る清少納言がやさしい性格でもあったからかもしれませんね。自分はそんなことしないという意図があったのかなと。

 

紫式部との関係

紫式部と清少納言ってライバルで仲が悪いというイメージがありますよね。私自身そのネタは小学生の頃から知っていました。ただ、現実は違います。まず2人は面識がないです。2人とも宮仕えの時期が違いますからね。その時点でお互い噂で色々聞いているくらいかと。ですが、紫式部は清少納言の性格に嫉妬していたからなのか一方的にライバル視はしていたそうです。そこらへんの詳細はこちらに書かれています!

不仲だったの?紫式部と清少納言の関係?

まとめ

古文で「枕草子」を読んだことはありますが分かりやすいとは思いましたね。古文が苦手な私でも短文だったからなんとなくでもわかる点はありましたし。それもあって、私は清少納言の書き方は好きでした。また、今になって清少納言のことを調べてみると彼女の性格は好きですね。自己肯定感が高いしカラッとしているなと。だからこそ、大河ドラマの影響で彼女のことを知れたのは嬉しかったです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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