どうも、りかちゅうです!江戸文化にはたくさんの絵がリリースされていました。江戸の人間はクリエイティブですからね。その際に出版してくれる人がいないと世に出ません。その出版をした1人でもあるのが重三郎です。それで、今回話すのは重三郎ではなく重三郎の永遠のライバルです。その名は西村屋与八です。彼と重三郎は推した絵は違うものの同業としてライバルでした。ですので、この記事にて西村屋与八とはどんな人なのかや重三郎との関係について話しますね!

西村屋与八のプロフィール

名前 西村屋与八(1代目)

※西村屋与八は本名ではなく店主の名前です。3代目まで続きました。

生年月日 不明

没年 不明

備考

江戸時代に錦絵や浮世絵などの様々な書物を扱っていた版元です。ちなみに、姓は日比野で「永寿堂」という名前で号していました。

西村屋与八の人生

以上が西村屋与八のプロフィールです!1代目は錦絵の普及をした人であるそうです。では、そんな1代目は具体的にどのような人生を歩んだのか?

1.錦絵を市場に広める

初代与八の功績はまず「錦絵」を市場に広めたことです。後ほど詳しく話しますが鈴木春信の美人画や鳥居清長の独創的な浮世絵は西村屋与八の存在を全国に知らせることになります。

2.永寿堂の開業

西村屋与八は日本橋馬喰町2丁目にお店を開きました。そのお店の屋号は「永寿堂」です。その際の版元はこちらです!

「永寿堂」は1780年代から1840年代にかけて繁栄しました。初代西村屋与八の事業は次代の版元たちに影響を与えたそうです。

3.その後

初代西村屋与八が立ち上げた「永寿堂」は2代目以降も繁盛し続けました。2代目西村屋与八は初代の事業を引き継ぎながら新たな作家や浮世絵師との関係を築き柳亭種彦や十返舎一九など有名な文筆家の作品を広く世に送り出しました。ちなみに、2代目西村屋与八は江戸で鱗形屋孫兵衛の子息であり、養子だったそうです。また、1822年から1831年頃に出版されたと言われている葛飾北斎の「富嶽三十六景」を出版したのは「永寿堂」だそうです。

重三郎との因縁

以上が西村屋与八の経歴です。教科書に載っている人や作品の名前がちらほら出てきましたね。このようなことを踏まえても、西村屋与八は江戸の文化に貢献した1人でもありますね。ただ、これって「べらぼう」の主人公でもある重三郎とはライバルってことにもなります。ということで、2人の因縁のことについても話しますね!

1.鱗形屋に関する因縁

重三郎は初めは吉原で鱗形屋の出版した商品を売る小売業者をやっていました。鱗形屋は江戸でも老舗の版元ですね。ただ、不祥事を起こしてしまい没落していきました。詳しいことはこちらを見てください!

重三郎のライバル!鱗形屋孫兵衛とはどんな人?

重三郎は鱗形屋が暴落してからは鱗形屋が独占していた吉原の案内書「吉原細見」を自ら発行するようになり版元業界で目立つようになりました。これは西村屋与八にとっては複雑な感情を抱いていたでしょうね。

 

2.美人画でバトル!

西村屋与八は美人絵の分野で活躍していた鳥居清長の版元として一時代を築きました。このような絵ですね。

八頭身のスレンダーな姿が特徴です鳥居清長の美人絵は必ずしも当時の体型を反映しているわけではないです。あくまで鳥居清長の理想の体型です。今の時代のモデルのようなスタイルでしょうね。

これに対して重三郎は喜多川歌麿を推しました。喜多川歌麿の絵はこちらです!

喜多川歌麿はスレンダーな美女というよりかはどこか親しみがある江戸娘の絵をメインに書いていたそうです。このように、西村屋与八が推した美人画と重三郎が推した美人画は違います。そのため、2人は美人画を巡って争ってたそうです。この争いはビジネス上を超えて両者の意地とプライドがあったそうです。その後、重三郎が推した喜多川歌麿が活躍するようになると西村屋与八は歌川豊国や鳥文斎栄之、勝川春潮などを推して対抗しようとします。

 

3.ビジネスの仕方の違い

初代の話ではないですが補足としてはなしますね!2代目西村屋与八に対して滝沢馬琴は次のように述べています。

其心ざま愚ならず売買にさかしき者なるが常にいふやう、版元は作者画工等の名を世に高くすなればその為に引札をするに似たり、かゝれば作者まれ画工まれ印行を乞ふべきものなり、吾は決して求めず

2代目西村屋与八はビジネス的にやり手だったそうですね。それもあって、作者や絵師は版元のおかげで有名になれるという考えはあったのかと思われます。そのため、2代目西村屋与八はこちらから頭を下げるのではなく作者や絵師のほうからお願いするんだという上から目線ではありました。それなりの実力がないとそんな態度はやってはいけないでしょうね。

それに対して、重三郎は作者や絵師の懐の中に入り込むことで人間関係のネットワークを作りビジネスを進めていたそうです。このような点を見ても2人のビジネス手法の対称的ですね。

まとめ

2 とりあえず西村屋与八のリリースした作品を見てると昔受験勉強で見た名前だなと思いましたね。まあ、それは重三郎にも言える話ではありますけどね。ただ、ちゃんと絵を見たのは調べてからですね。西村屋与八と重三郎は同じ版元でも推している絵が違うのは新発見でした。美人絵なんてまさにそうですよね。だからこそ思うのは両者とも違う絵を推していたから良きライバルとして成立していたのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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