どうも、りかちゅうです!徳川家が絶対的に勝てなかった家がありました。それは真田家です。真田丸見ている人ならばそこら辺はご存知かと。それで、今回は「豊臣兄弟」で第一次上田合戦のことが少しだけ書かれてるのでその話をしたいなと。豊臣兄弟で少しでもネタにされるとは思いませんでしたが。この合戦は真田と徳川の初めてのバトルでした。結果は少数精鋭なのに真田が勝ちました。一体どんな合戦なのか?この記事にて話しますね!
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第一次上田合戦のきっかけ
滅亡した武田家の領地のために上杉家、北条家、徳川家が支配権を争っていました。その時にキーマンとなったのは真田昌幸でした。昌幸は武田家の家臣だったものの武田家が滅亡してから傘下迷子でしたからね。でも、どこの家のこともそれほどだからときに降伏したり、ときに裏切ったりしていました。その際に各国の痛痒いポイントを巧みに突いていました。
ただ、そんな昌幸にあるピンチが起きます。それは真田家のいないところで話し合いが進められたこおで甲斐信濃は徳川領、沼田は北条領と勝手に決められてしまったのです。沼田エリアは昌幸にとって越後・信濃・上野の街道ポイントとなる要衝であるためこの話は絶対に受け入れられるものではありません。もちろん、昌幸は憤怒し激しく抵抗しました。そして、昌幸は反徳川の姿勢を明らかにして1585年8月2日に第一次上田合戦へと繋がっていくのです。
第一次上田合戦の予行
第一次上田合戦が本格的に始まる前から色々動いていました。ですので、その話をこれからしますね!
1.昌幸は上杉につく
越後の上杉家について沼田領の保持に全力を尽くそうとします。そこにはもちろん目算はありました。徳川家と北条家が和睦すると両者の矛先が向かうのは北の上杉家になる可能性があるからです。また、上杉家は上杉謙信の時代から沼田を保持することで他勢力の越後侵攻を阻み逆に関東へ睨みを利かせてきました。となれば、真田家の沼田領有を認めることで北条家の北進を阻止できればたとえ昌幸が表裏比興のヤツだと分かっていても味方にしておいた方が得です。その際にあの源次郎が上杉家の人質になりました。まあ、人質でも待遇はすごかったです。
2.徳川家の思い入れ
昌幸はこれで今度は徳川家と北条家を敵に回すことになり北条家は沼田に徳川軍は上田侵攻を開始します。この戦いでの徳川家は本気です。なぜなら、真田の上田城築城や人や金など多大なる協力を提供したのは徳川家です。それでも裏切れるのは昌幸からしたら武田家以外惚れ込んでないからでしょうね?さらに、家康からしたら上田城を放置しておいても徳川家の領地には何ら危険性はありません。ですが、国衆の離反をアッサリ許していたら旧武田領の新たな支配者としての威信と経営が揺らぎます。それ故に徳川家はメンツのため上田城を奪取しないといけないんです!
第一次上田合戦の流れ
第一次上田合戦では真田軍が斜め上なことをして徳川軍をコテンパにしました。どのような感じにコテンパにしたのか?
1.あえて攻撃しない真田軍
記録がないため推定ではあるものの、神川の渡河後に古代の国分寺跡に本陣を置いてきていてここまでは真田家からのさしたる抵抗もなかったことが分かります。理由は昌幸は第一防衛線にすべき神川を放棄して上田城に閉じこもっていたからです。ここで徳川軍は真田に戦意なしと考えました。さらに、上田城の築城を手伝った徳川家はその縄張りまですべて把握しています。家康からしたらこれは楽勝ですね。現に事実、徳川軍が侵攻を始めると上田城の二の丸まであっさり制圧、あとは本丸を残すのみとなっていましたから。ですが、その時にいきなり昌幸が動きました。
2.いきなり反撃する真田軍
いきなり真田軍が反撃に出ました。まず敵を十分に引きつけた上で城の脇から出撃した別働隊が徳川軍の側面を攻撃しました。実は上田城の東側の門を戦闘正面とした場合、北と南の門から側面攻撃が可能な縄張りになっていした。また、東側面に対しても何とか本丸全体が馬出状の防御施設になるように改築された可能性があるそうです。さらに、馬出は少数の兵力で大軍に対応できゆから少数兵力の真田軍にとっては本丸が最も守りやすい場所かと思われます。そう考えると、全ての防衛線を放棄して本丸で迎え撃つプランが妥当だったのかと。まあ、普通の人間ならリスクがある戦術です。となれば、昌幸はよほど肝が据わっていたのかと思われます。
3.徳川軍は撤退しようとしたものの…
油断していた徳川軍は大混乱に陥りひとまず撤退します。ですが、昌幸の長男こと真田信幸率いる別働隊が奇襲を仕掛けました。これは徳川軍からしたら全く想定していなかった別働隊の奇襲です。それで終わりではないです。東に撤退するにはなだらかな坂を上らなければなりません。追撃する昌幸の本隊と信幸の別働隊は、逃げる徳川軍に追いつきました。そのため、多数の徳川軍が討ち取られます。もうこれは真田家の勝ちですね。一方で徳川家は上田城を落とせず撤退するほかありませんでした。
その後どうなったか?
徳川家の方は石川数正が秀吉方につくという重大な出来事もあって上田攻めを一旦放棄し真田家に対しては力攻めではなく懐柔して味方につける戦略にシフトします。まあ、昌幸にとっても上田と沼田の領有さえ認められれば反抗する理由はなくなりましたね。それで、徳川家は真田家を与力大名にすることにしました。そして、家康は本多忠勝の娘こと小松姫を信幸に嫁がせました。とは言っても、昌幸は豊臣家の臣下となり上田と沼田の大名としてちゃっかり列席することになりました。ですが、結局は係争地とされた沼田城は北条家に割譲されてしまったので昌幸には名胡桃城周辺しか与えられませんでした。
まとめ
真田は軍の数や領地は多くないものの、力は想像以上に強いですよね。斜め上なやり方で毎回のようにコテンパにするのが主流というのか。徳川は昌幸と源次郎にコテンパにされていましたね。これ見ても真田の強さは異様なものを感じます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。