どうも、りかちゅうです!田沼意次が正座していたときは誰が将軍だったかはご存知ですかね?田沼意次の存在が大きいため分からない方もいるかと思われます。それは徳川家治です。家治は実は文武両道で聡明な人だったそうです。また、意次がここまで出世できたのは家治のおかげでもあります。このように、マイナーでも実はあの時のキーパーソンです。だからこそ、この記事にて彼の話をしますね!
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徳川家治のプロフィール
家治は将軍の中でもマイナーではあります。ですので、まずは彼のプロフィールから見ていきましょう!
名前 徳川家治
生年月日 1737年6月20日
没年 1786年9月17日
備考
吉宗の孫で聡明で賢かった将軍らしいです。ただ、政治よりも趣味が好んでいたからなのか政治は意次メインでやらせていたそうです。
徳川家治の人生
以上が家治のプロフィールです。では、彼はどんな人生を歩んだのか?
1.生い立ち
家治は1737年に9代将軍徳川家重と梅渓幸子の嫡男として江戸城西の丸で生まれました。幼名はもちろん竹千代です。ちなみに、家治のお母さんの家でもある梅渓家は平安時代の村上天皇こと村上源氏の血筋を引く公家の一家です。
となると、家治は将軍家と公家との間に生まれた子供ってことですね。由緒ある血筋を引く子供ってお坊っちゃんの鑑だし貴公子かよと思います。
2.吉宗が家治を育てる
実は家治のお父さんの徳川家重は生まれ付き言語不明瞭でした。そのため、家治のおじいちゃんこと徳川吉宗は家治に期待し帝王学や武芸、学問を教えなど多くのことを授けようと考えました。また、吉宗は家治を支える家臣たちの教育にも力を入れたり、小姓たちにも 自ら様々な指導を行ったりしたそうです。このように、吉宗は自分が死ぬまで家治を寵愛したそうです。そのため、家治は天賦の才能でこれらを瞬く間に吸収し聡明な子に育ったそうです。
3.文武両道の家治
家治の優れた才能は文武両面で開花します。まず、武芸面では剣術を柳生家の柳生久寿から学び、槍術や弓術、馬術にも励みました。特に鉄砲の腕前は達人の域に達したと言われています。また、文化面でも能や絵画、書画に優れた才能を示しました。特に将棋は七段の腕前を持ち「御撰象棊攷格」と呼ばれる詰将棋の作品集を世に残したほどです。さらに、囲碁の腕前も相当なものだったと伝えられています。それもあって、周りからは「吉宗にも劣らぬ、立派な名君となるだろう」と大きな期待を寄せられていました。
4.田沼意次を取り立てる
1760年た徳川家重の隠居により家治は10代将軍に就任しました。そして、1761年に徳川家重が亡くなると家治は遺言に従い田沼意次を重用します。ただ、家治が意次を重用した理由は遺言だけではないです。意次は吉宗が取り立てた人間だからです。意次は低い身分から徳川家重の側用人へ、そして大名にまで地位を上げた人物です。きっと家治は彼はただ者ではないことを見抜いていたのだと思われます。
それで、家治は意次に重要な役職を任せるようになり、1767年には側用人に任命し、1772年に家治は意次を老中に任命しました。その際に意次は側用人も兼任さました。家治は自分が政治を取り仕切るよりも意次に高い地位を与え自由に政策を行なえる方が良いと考えたのかと思われます。
5.意次と商業重視の政策をする
その当時吉宗が行なった倹約・増税政策には限界がきていました。重い年貢に耐え切れず各地で一揆が多発しました。そのため、新たな経済政策の実行は急務ではありました。その際に、意次がやったのは重商主義政策です。重商主義政策を簡単に言うと貿易などを通じて金銀や貨幣を蓄えることにより富を増やそうとする経済政策です。詳しいことはこちらを見てください!
6.将軍でも珍しい愛妻家
家治は愛妻家としても知られていました。実は家治と正室の間には女の子2人だけで男の子は幼くして亡くしています。将軍に子がいないことは将軍家の一大問題ですね。となれば、側室を迎えて男の子を産むのが当たり前でした。ですが、家治は家臣達に側室を勧められても嫌がりました。ただ、意次が側室を持つように勧めると意次も側室を持つのであればという条件付きで承諾したそうです。
7.後継者問題が発生
迎えた側室との間に無事に男の子が生まれました。ですが、男の子が生まれたら家治は側室のもとにまったく通わなくなるだけでなく生まれた子供の養育は正室の倫子に任せています。これは側室からしたら悲しいことですよね。しかも、その2人も幼くして亡くなってしまい、後継者がいなくなってしまったのです。1781年に一橋家当主の徳川治済の長男こと豊千代を養子に迎えたことで、後継者問題は一応の決着しました。ちなみに、豊千代は後の徳川家斉となります。
8.突然の死と意次の失脚
1786年8月25日に家治は49歳という若さで死去します。死因は脚気衝心と推定されています。ただ、家治は後継者問題やアンチ田沼の影響てわで暗殺されたという説もあります。ちなみに、家治の遺体は東京都台東区上野の寛永寺に葬られました。また、家治の死によって家治が政治を託していた意次は反田沼派の動きが活発化となり失脚へと追い込まれていきます。
徳川家治のエピソード!
家治は影の薄い将軍とは言われています。意次が政治をやっていたのもありますが。まあ、家治は政治よりも趣味に生きてたのでそこに不満はなさそうですが。ただ、そんな彼にはエピソードがいつくかあります。ですので、その話をしますね!
1.火事の対応が素晴らしい
家治の「火事の対応」がすごかったそうです。江戸時代は火事が頻繁に発生していました。もちろん、家治が将軍の時でも大規模な火災が何度か起こりました。だからこそ、ある時大きな火事が発生しました。その際に家臣たちが「どんな様子か見に行こう」と言いました。そしたら、家治は「火事は民の憂いであり、私の憂いでもある。決して面白半分で見物するようなものではない。」と言って止めました。
さらに、幕府の倉庫からお米を放出し被災した人々を救おうとしました。このように、家治は「民のことを第一に考える将軍」だったのです。
2.質素倹約な人
私生活では質素倹約を心がけていました。尊敬する祖父・吉宗にならい、大奥の費用を吉宗の時代よりもさらに3割も削減したといいます。
一方で、必要な出費は惜しみませんでした。ある雨の日家来の一人が溜め息をついているのを見かけた家治はその人に落ち込んでる理由を聞きます。それで、その理由が実家が貧しく雨漏りがひどいからと知ると、家治はすぐに修繕費用として100両を与えたといいます。
3.将軍でも謙虚なマインドの持ち主
将軍という権力を持っていても家治は一生涯謙虚な態度を保ち続けました。まず、将軍就任直後に老中の松平武元に対して「自分はまだ未熟者なので過ちがあれば遠慮なく指摘してほしい」と頼んでいます。このような態度は日常生活でも表れています。早朝に目が覚めると他の者が起きてくるまで静かに待ったり、トイレに行くときも周囲の者を起こさないよう気を遣ったりしたそうです。さらに、家治は吉宗への尊敬の念を生涯持ち続けました。新しい料理が出されると必ず「これは吉宗もお召し上がりになったものでしょうか」と確認してから口にしたといいます。
まとめ
意次が老中として出世できたのが家治なのは知りませんでしたね。しかも、家治からしたら尊敬してる吉宗のやってることを継続したらリスクになるってことを察知して意次を推している辺りがしごできですね。私情を挟まずジャッジできているというのか。仕事できない人なら私情を挟むと思いますし。
このような点からしても表には目立ってなくても縁の下で頑張っていた将軍なのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅうと