どうも、りかちゅうです!江戸の三代改革はご存知ですかね?江戸の中期に行われたあれですね。あの時代は文化パラダイスでしたね。それで、その三大改革の1人が文化に力を入れました。それは田沼時代の田沼意次です。彼ってお金関係に荒そうなイメージがありますよね。ですが、彼は商業や文化に力を入れたんです!そのため、景気を回復させました。となると、彼は貢献した人ですね。だからこそ、この記事にてこの記事を話したいと思います!

田沼意次のプロフィール

田沼意次といえば江戸の3大改革の1人ですね。とは言っても、記憶にない人もいるでしょうね。歴史が嫌いな人ならば尚更のこと。ですので、まずは彼のプロフィールから見ていきましょう!

名前 田沼意次

生年月日 1719年9月11日

出身地 遠江国相良

没年 1788年7月27日(享年70歳)

備考

田沼時代のあの田沼意次です。商業を盛んにさせようと努力したものです。とは言えども、「賄賂政治」の代名詞としても語られる人物でもありますけどね。ただ、これは印象操作とも言われています。

田沼意次の人生

以上が田沼意次のプロフィールです。では、彼はどのような人生を歩んだのか?

1.生い立ち

意次は1719年に遠江国相良(今の静岡県牧之原市です)で紀州徳川家の足軽であった田沼意行の嫡男として生まれました。幼名は竜助といいます。

足軽というとステータスは恵まれていないですね。ですが、お父さんの意行が徳川吉宗の側近となりました。そのため、、吉宗が8代将軍となってから意行は吉宗とともに江戸に来て幕臣となりました。一方で意次は1734年に吉宗の跡継ぎである徳川家重の小姓になりました。そして、1735年に意行が亡くなると意次は17歳で田沼家の家督を継ぐことになります。

2.異例の出世スピード!

1745年に吉宗が隠居して家重が9代将軍に就任すると意次は引き続き家重の小姓として仕事をしました。意次は家重に信頼されていたんですね。それで終わりではないです。意次は40歳の時に旗本から1万石の大名に昇格したのです。理由は宝歴騒動という騒動を手際よく処理したからです。その影響ね意次はやり手の人間として注目される存在になっていました。

3.老中になる!

家重が病のために将軍職を退いたあとは徳川家治が10代将軍に就任します。そのため、本来ならば側近も辞任するケースが多かったようです。ですが、意次だけは家治に仕えました。理由は家重は亡くなる時に意次のことを「またうとの者(正直者だから目をかけるように)」と遺言したからだと言われています。こうして家治の信頼も得た意次は側用人(となり2万石に加算され、遠江国の相良城主となります。そしてついに1772年に意次さ正式な老中となったのです。

 

4.田沼政治を始める

吉宗による「享保の改革」以降幕府では質素倹約を進めました。ですが、幕府の財政難は解決されていませんでした。逆に年貢増に対する農民の不満は溜まりました。また、天災の影響もあって農村は疲弊していました。これを見た意次は農業の振興には限界があると考え商業の発展に力を注ぎます。

何をしたかに関しては長くなるので後ほど話しますね!少なくとも言えるのは意次の政治は今までにない新しいやり方だったため不満を抱く人々も多かったようです。ですが、貨幣経済が活性化して江戸の町は豊かになりました。そのおかげで歌舞伎や浮世絵などの江戸文化が花開くことにも繋がりました。

 

5.災害と飢饉のせいでピンチに陥る

改革で成果を上げる意次に反対する者はいなくなっていました。意次も嫡男の意知を若年寄とするなど周囲を賛同者で固めようと動き始めます。

ですが、ちょうど時にピンチが起きます。それは浅間山の大噴火が引き金となって降灰や冷害で作物が全滅し飢饉が発生したり疫病の流行をしたりしたことで多くの人が亡くなります。さらに、米価の高騰で一揆が頻発し人々は批判を意次に向けるようになりました。天災が元凶なんですけどね…。

6.息子の殺害と失脚

不穏な空気が流れるなか1784年に意知が旗本の佐野政言によって暗殺される悲劇が起こります。賄賂を贈ったものの昇進させてもらえなかったのが理由などと言われています。ですが、真相は不明です。ワンチャン政敵の松平定信を含む保守派たちによる陰謀という説もあります。まあ、この事件が意次失脚のきっかけになったのは間違いないようです。そ1786年家治が亡くなり後ろ盾を失った意次は老中辞任に追い込まれます。

7.最期

1787年に新たに老中となった定信は意次に対して辞任だけではなく厳しい処分を行いました。内容は隠居謹慎、所有していた屋敷や相良城などの没収、1万石の領主として家名を継ぐことのみを許すというものでした。その一年後、1788年に意次は失意のうちに江戸で亡くなります。それ以降家督は孫の意明に継承したそうです。

田沼政治の具体例

先ほども述べたように田沼政治は特殊な一面があります。では、何をしたのか?

1.通貨制度の改革

まず通貨制度の見直しにも着手しました。それまで江戸では金貨、京や大坂では銀貨が主に流通していました。その際に問題となっていたのは銀貨です。銀貨は重量によって価値が変動していました。そこで、意次は貨幣としての価値を明示した銀貨こと「南鐐二朱銀」などを発行し金貨との交換比率も固定させました。ちなみにこのようなものです!

このように、統一されていなかった貨幣に決まりを作ったことで取り扱いを簡便にしたのはもちろんのこと、経済活動がスムーズにいくようにしました。

2.蝦夷地の開発と印旛沼・手賀沼の干拓事業

蝦夷地の開発計画も進めました。まず、工藤平助の提言を受け蝦夷地調査を行い新たな可能性を模索しました。また、千葉県の利根川流域の新田開発を目指し印旛沼や手賀沼の干拓事業を推進しました。ただ、これらのプロジェクトは意次の失脚とともに中断されました。

 

3.株仲間の認可する

商工業者の同業者組合である株仲間を結成させました。その際に幕府から営業の独占を認められるかわりに冥加金を納めさせるシステムを考えました。これによって幕府財政を潤すとともに商業経済を発展させようとしました。結果としては10代家治のときには約80の株仲間が認可されたそうです。

なぜ嫌われて失脚したのか?

意次は成果はあったものの悪いように言われています。では、なぜなのか?

1.嫉妬

1石高の低い立場から側用人、老中と大出世をしたため周囲の嫉妬を買いました。そのため、どんな手を使ってでも出世しようとした人物と見られていたようです。

2.商人重視にしていたから

意次が実施した商人活動を重視する政策をしたことで商人との結託行為と見られてしまったそうです。その行為が賄賂政治みたいな言われ方をしてしまったんですかね?ただ、商業活動を重視するという政策は今では意次の再評価にもつながっています。

まとめ

意次は経済を良くするために動いていたのは事実です。しかも、見た限りだと悪さしているようには思えないんですよね。だから、定信など意次のことを煙たがっていた人が追いやった可能性はあるのかなと思われます。それなのに、定信は厳しすぎたから国民から嫌われていましたからね?そう考えると、意次って本当はいいことをした人だと思われます以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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