どうも、りかちゅうです!秀吉には美男子で武術も知能が長けていた家臣がいました。特に中国史ヲタクでした。まあ、元は斎藤道三の家の人ではありましたが斎藤家が滅んでからは秀吉の元にいることになりました。彼は一生涯武士として真っ当したものの、短命でした。それは誰なのか?竹中半兵衛です。武将として見がいがあるのに短命なのが惜しいです。では、一体何者なのか?この記事にて話しますね!

竹中半兵衛のプロフィール

竹中半兵衛と聞いても知らない人はいるかと思われます。一回は信長を負かしても教科書には載ってないので。ですので、まずは彼のプロフィールから見ていきましょう!

名前 竹中半兵衛

「半兵衛」は通名で本名は竹中重治です。

生年月日 1544年9月27日

 

没年 1579年6月13日

備考

斎藤龍興の家臣だったものの、斎藤家が滅んでからは秀吉の家臣になりました。知能も武力も長けていました。信長を負かすレベルです。ですが、中国攻めの時に病で亡くなりました。

竹中半兵衛の人生

以上が半兵衛のプロフィールです。では、どのような人生を歩んだのか?

1.生い立ち

半兵衛は1544年美濃国の国主こと斎藤道三の家臣であり「大御堂城」の城主である竹中重元の子として生まれました。半兵衛は「その容貌、婦人の如し」と言われるくらいに線が細い美男子でした。ですが、実際は武術に優れていました。また、漢王朝を興した高祖「劉邦」の軍師こと「張良」や、三国時代の蜀国の軍師「諸葛孔明」ことゆかりの兵法書を読破するなど中国史ヲタクでした。

 

2.初陣と家督継ぎ

1558年には竹中重元と共に美濃にある岩手山城を攻略し、その場所に菩提山城を築いて竹中家の新たな居城にします。これは、菩提山城は山頂に造られた広大かつ堅固な城でした。ですが、岩手山城攻略からわずか数年後の1560年に竹中重元が亡くなります。これにより、半兵衛は家督を継いで菩提山城城主となり斎藤道三の孫こと斎藤龍興に仕えるようになります。

3.信長との戦いでも活躍

半兵衛が斎藤龍興に仕え始めたとき信長が美濃を凋落している時でした。しかも、信長は若い斎藤龍興なら落城はたやすいと思っていました。そこで、半兵衛は信長を追い払う戦法を考案しました。

それは、「十面埋伏陣」という独特の戦法です。これは、敵が通ると予想される所に敢えて伏兵を仕込ませて置きます。そうすることで、敵兵が通り過ぎるのを待って背を向けたところを全方位から攻めることができます。これは中国の三国時代の曹操が袁紹軍に対して仕掛け勝利したやり方だそうです。安定の中国史ヲタクですね。

4.斎藤龍興にボイコット?

このやり方で斎藤龍興軍が勝利しました。信長からしたら痛いですね。一方で斎藤家は半兵衛の奇策によって危機を免れました。ですが、斎藤龍興はこの勝利に調子に乗り暴政を行なうようになったのです。なんなら、政を放棄し美濃国の士気は落ちるばかりでした。

そこで、半兵衛は驚きの手段に出ます。なんと、斎藤龍興の居城である稲葉山城から斎藤龍興を追い出し、城を乗っ取りました。詳細としては半兵衛は人質として稲葉山城にいた弟の竹中久作を見舞いに来たと口実を設けわずか16人〜17人の家臣達と共に稲葉山城に入りました。そして、あっと言う間に稲葉山城を奪いました。

5.稲葉山城を返す

これを聞いた織信長は半兵衛に一目置き、美濃国の半分を条件に稲葉山城を譲渡するよう交渉します。ですが、半兵衛は拒否しました。そして、半年稲葉山城に立て籠もった後に斎藤龍興に城を返ししばらく隠棲しました。半兵衛がこのような行動に出たのは堕落した斎藤龍興を戒めるためだという説はあります。まあ、他にも説がありますけどね。

6.秀吉の家臣になる

信長は稲葉山城の一件もあって半兵衛を家臣にしたいと思うようになります。信長は相当気に入っていますね。そこで、信長は秀吉にに勧誘を命令しました。秀吉は半兵衛に三国志に出てくる「三顧の礼」(目上の者が格下の者のもとへ3度出向いてお願いをする)をやりました。相手の好きなものを使って人を落とすって秀吉のマーケティングセンスが長けてますね。半兵衛はこれに感激し秀吉の与力になることを了承するのです。

※三顧の礼については、竹中半兵衛の優秀さを際立たせるための創作という説はあります。

7.最期

信長が秀吉に指揮を執らせた「中国攻め」に半兵衛は追従します。ただ、秀吉は苦戦していました。ですが、大敵とも思われた備前八幡山城の城主・宇喜多家の家臣であった明石家を半兵衛は説得して味方に付けたことで宇喜多家をも抱き込み無血開城を成功させたそうです。これに喜んだ信長は秀吉に黄金100枚と半兵衛に銀子100両の褒美を与えました。ただ、1579年の中国攻めに肺炎に倒れ6月13日に36歳の若さで亡くなりました。

竹中半兵衛の実績竹中半兵衛の性格

スルースキルが高く、堪え性があるのに突然カジュアルな仕返しをします。また、損得や利益では動かず、自分を認めてくれた人に尽くします。自分の功績よりも上司の出世に喜びを感じ、さり気ない知恵で盛り立てます。

竹中半兵衛と長篠の戦い

織田軍が武田軍の騎馬隊攻略のために鉄砲を使った画期的な作戦を展開したとして知られる合戦です。半兵衛はこの長篠の戦いでも活躍しました。武田軍が一部の兵を横に動かしたのを見て秀吉はじめ織田軍は横からの攻撃に備え武田軍に追従して移動しようとします。それで半兵衛は秀吉の命令を聞き入れず、その場を離れませんでした。なぜなら、半兵衛はこれは織田軍を混乱に陥れるための武田軍の作戦だと見抜いていたのです。この見抜きによって秀吉は救われました。

竹中半兵衛の逸話

見がいのある半兵衛には逸話があります。ですので、その逸話を見ていきましょう!

1.半兵衛由来の慣用句

「知らぬ顔の半兵衛」という慣用句があります。 意味は何もかも知っているのにとぼけて知らないふりをすること(そういうことをする人も当てはまります)です。この慣用句の元ネタは竹中半兵衛のある逸話から生まれています。

半兵衛が斎藤龍興に仕えていた頃の話です。斎藤家の情報を集めたい信長は前田利家を偵察送りこみます。その際に利家は半兵衛の娘こと千里に近づいて情報を聞き出そうと考えました。もちろん、利家が千里と親しくしていることを半兵衛はとっくに気づいていました。ですが、半兵衛はそれを知らない顔でやり過ごし、偽に情報を流します。さらに、それとなく織田家の情報を聞き出していました。一方で何も知らない信長が意気揚々と美濃に攻せめてくると半兵衛はこれをフルボッコにしました。

2.黒田官兵衛を助ける

荒木村重が信長に謀反を起こしました。その際に黒田官兵衛が村重を説き伏ふせに向かいましたが捕とらわれてしまい有岡城の牢に入れられてしまいました。それで、官兵衛がなかなか戻もどってこないので裏切ったと思った信長は官兵衛の嫡男こと松寿丸を殺すよう命令します。ですが、半兵衛がこの件を引き受け松寿丸をこっそり隠し、信長には別の子の首を差し出して誤魔化します。この一件に関して官兵衛は半兵衛に対してすごく感謝したそうです。

まとめ

半兵衛の中国史愛には圧倒されちゃいました。私は中国史は疎いから尚更です。あと中国史を元に戦略立ててる点も面白かったです。これぞ守破離ですね(「守破離」という三字熟語の元ネタは中国史らしいですね)。これ見ると中国史から学べること多そうですが。とにかく、彼は自分の好きなものから応用できる能力があるのかなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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