どうも、りかちゅうです!平賀源内という人物を聞いたことはありますか?この方学校の教科書に載ってる人なんですよね。だとしても、知らない人もいるでしょう。彼は江戸の発明家でもあり文化人でもある人です。子供の頃からクリエイティブだったそうです。これは先天的な才能でしょうね。そこら辺の詳細は後ほど話しますね。また、彼は影響力のある人でもありました。実はとある習慣を広めた人だそうです。ヒントは夏に気力をつける食べ物です。こちらも後ほど話します!一体何者なんだと思いません?ですので、この記事にて話しますね!
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平賀源内のプロフィール
教科書に載っている人ではありますが見どころある人なのでまずは彼のプロフィールから載せますね!
名前 平賀源内
「べらぼう」では安田顕が演じていますね。安田顕は好きなイケおじなので出演しているのは嬉しいです!
生年月日 1729年
出身地 高松藩
没年 1780年1月24日
備考
源内は発明家・作家・本草学者・陶芸家・画家・起業家などの色々な肩書きを持っています。器用すぎないと思います。また、発電器「エレキテル」を復元したことでも有名です。
平賀源内の人生
以上が彼のプロフィールです。盛り沢山な人ですね。そのため、今回の記事のボリュームは多めです。ですが、ついてきてください!まずは彼の人生から!
1.生い立ち
源内は1728年に高松藩(香川県です。源内は現在の香川県さぬき市志度方面で生まれたそうです)で生まれました。育ちは足軽身分である白石家だそうです。武士のステータスとしては低いですね。ですが、兄弟が多い家庭で育った(彼は三男です)源内は幼い頃から並外れた創造性と好奇心を見せていました。
2.10代の頃からの活躍
12歳のとき源内は周囲を驚かせる出来事を起こします。それは掛け軸に巧妙な細工を施したことでお神酒を供えると描かれた天神様の顔が徐々に赤く染まっていったんです。ちなみに、この掛け軸は「お神酒天神」と言われています。もちろん、この功績は評判になり「天狗小僧」と呼ばれるようになったそうです。
それで終わりではないです。13歳のときに高松藩の藩医こと三好喜右衛門から本草学を学びました。本草学とは薬用となる動植物を研究する学問のことです。そして、それと同時に武士の基礎教養である儒学も学んでいたり、俳諧グループにも所属していたそうです。アクティブすぎてついていけないです。
3.長崎留学と江戸進出
22歳でお父さんを失った源内はお父さんの跡を継いで高松藩の蔵番となります(お兄さんも亡くなってたそうです)。しかし、その才能を見出した藩主が源内を長崎留学を打診しました。もちろん、源内は乗ります。この留学経験のおかげで強い探究心を抱くようになったのです。具体的にはオランダ語や医学、油絵など、当時の日本人にはほとんど知られていなかった技術や学問を貪欲に吸収していきました。それから留学から戻ってきた源内は29歳の時に家督を妹の婿に譲り江戸へ向かうことを決意したのです。
4.本草学の研究
江戸に出た源内は名医として知られた本草学者の田村藍水の弟子になります。田村藍水とは朝鮮人参の国産化に成功した人物として有名です。また、林家の私塾にも入門し漢学の研究も深めていきました。この探究心があったことで彼は早速江戸で功績を残しました。
それは日本で初めての博覧会とも言える「物産会」というものがありました。「物産会」とは全国から珍しい薬草や鉱物などを集めて展示・紹介する催しです。もちろん、源内も1762年に江戸・湯島において「東都薬品会」を開きました。この試みは大きな反響を呼びました。そのおかげで日本各地で物産会が開催されるようになっていきました。
5.杉田玄白との出会いと鉱山活動
自身の開いた物産会を通じて源内は「解体新書」を買いた杉田玄白と出会いました。杉田玄白は平賀源内の良き理解者となったそうですね。また、この出会いによって鉱山活動もすることになります。まず源内は1761年に伊豆で鉱床を発見しました。さらに、武蔵川越藩の依頼で奥秩父の鉱山開発にも携わりました。その際に石綿などの新たな鉱物資源を発見したそうです。
6.エレキテルの復元と芸術活動
源内の名を一躍有名にしたのが、静電気発生装置「エレキテル」の開発です。1776年に源内は長崎でオランダから輸入された壊れたエレキテルを入手しその仕組みを研究しました。その結果、修理・復元に成功します。また、源内の才能は文学者としても足跡を残すことになります。「戯作」と呼ばれる江戸時代の通俗小説や人形浄瑠璃でヒットしたそうです!
※こちらの話は後ほど詳しく話しますね!
6.最期
源内の最期の肩書は最悪なものでした。1779年にある大名屋敷の工事を請け負った源内は酒に酔っていたせいで設計図を盗まれたと思い込み大工の棟梁を殺傷してしまいます。もちろん彼は投獄行きです。そして、最期は獄中で破傷風を患い51歳という若さでその生涯を終えることになりました。これって殺人犯という肩書きまでもを作って亡くなったということですね。そう考えると源内はたくさんの顔があるんですね。
平賀源内のエピソード
以上が彼の人生です。本当に1人でやったレベルかよって感じですよね。だからこそ、彼にはいろんなエピソードがあります。ですので、その話もしますね!
1.「土用の丑の日」という言葉は平賀源内が作った!
このキャッチコピーは源内が付けたものです!経緯としては
江戸の老舗うなぎ屋が夏場の売り上げ不振に悩んでいたためその悩みを源内に相談しました。そしたら源内がこのキャッチコピーの看板を掲げることを提案したそうです。ちなみに、これは日本最古のキャッチコピーと言われています。
これは商売のようなものではないが商売のようなものであるって感じですね?うなぎ自体は活力をマシマシにするのは事実ではあるものの結局はお金稼ぎじゃんと。それはそうですがこのキャッチコピーはセンスがあります。土用の丑の日とは夏の土用(立秋前の約18日間)の中で丑の日にあたる日のことです。なぜ丑の日が選ばれたのか?それは「う」の付く食べ物を食べると夏バテしないという言い伝えと「丑」の字を掛け合わせたかったからだそうです。この発想は見事的中したため店は大繁盛しました。そしてそれ以後土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が全国に広まっていきました。
2.人たらし!
源内は自信家で大風呂敷を広げることも多かったそうです。とは言えども、才気と構想力で多くの人間を魅了しました。人たらしの鑑てますね。そのため、若い頃から支持者が多いのはもちろんのこと、江戸で知り合った蘭学者の仲間内でもつねに一目置かれる存在だったそうです。
またあまりにも破天荒な生き方からペテン師とそしられることも多かったそうです。ただ、ペテン師といっても源内は幕府や資産家を巻き込んだペテン師です。そんな能力は誰もが持てるものではないです。その能力を持てたのは源才が愛される人柄を持っていたからでしょうね!
平賀源内の発明品
平賀源内はアクティブでもあるため色々なものを発明しました。ですので、彼の発明品をこれから話しますね!
1.源内焼
源内は陶芸もやっていました。どうやら源内は故郷の志度に陶器の製法を伝えたとされます。この製法は志度焼や源内焼と言われていました。源内焼の特徴としては緑や褐色など複数の釉薬を使用した独特の色彩だそうです。こんな感じですね。
源内焼きは美術的な観賞価値が高いため一部は国の文化遺産に登録されているものもあります。
2.燃えない布を作った?
源内は1764年に秩父の山中で石綿を見つけ火浣布を作りました。石綿は繊維状の鉱石でこの繊維を使用して織った布は熱に強く燃えない性質を持っているうです。早速源内は幕府に献上したところ好評になり大量の注文を受けました。ですが、原料入手の難しさや技術的な行き詰まりのせいで量産化はできませんでした。
3.エレキテルの復元
先ほども述べたように源内はエレキテルを復元しました。エレキテルとはガラス円板を回転させて摩擦を起こし静電気を発生させる装置でした。源内はこの装置が持つ医療効果に着目したらしいです。具体的にはエレキテルを使えば痛みや麻痺の治療に活用できると考えたそうです。そこで、源内はエレキテルを復元したんです。このエレキテルの開発は当時の江戸の人々に大きな衝撃を与えました。ですが、前代未聞なことであったのか「怪しげな機械を作る男」という評価も生まれ源内の評判は複雑なものとなっていきました。
4.文学と脚本
作家としても活動するようになり、当時の世相を風刺した小説「根南志具佐」や「風流志道軒伝」などを発表します。その当時の文学は教訓的な内容の作品が主流でした。そこに源内はその形式を踏襲しながら独特の面白さと社会への皮肉を巧みに織り込んでいきます。この新しいスタイルは読者に支持されたため源内は人気作家になりました。彼は「福内鬼外」の名で浄瑠璃の脚本も手がけています。「神霊矢口渡」が代表作ですね。
内容は、武将の新田義興をまつる新田神社の縁起を脚色したものです。それまで江戸は大阪で人気のある作品を上演するのが一般的でした。ですが、「神霊矢口渡」は江戸を舞台にした作品として大ヒットしました。
まとめ
これを1人でやったのと思いましたね。だって何人かでやったんじゃないのと思うくらいに源内は色々やってるんですもん。こんなに器用にやれる人はそういないと思います。もうそれしか言えないです。要するに、私は源内はアクティブで今日な人と思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。