どうも、りかちゅうです!信長と秀吉認めた絵師がいます。いや、代々将軍や天皇家などのお偉いさんが大事にしている絵師ですね。その名前は狩野永徳です。元からお偉いさんから認められている家ではありました。永徳は4代目ですからね。とは言っても、永徳の実力の影響は大きいです。江戸時代も狩野派は流行りましたから。「べらぼう」時代とか引っ張りだこになってたかと。一体何者なのか?この記事にて話しますね!

 

狩野永徳とは何者?

狩野永徳は安土桃山時代の画人で4代目です。天才と呼ばれ権力者たちの御用絵師として数々の障壁画を描きあげました。彼の功績は信長や秀吉天皇家に重宝されていました。そのため現代では永徳のことを「天下人の絵師」と呼ぶ声も少なくありません。さらき、近年では永徳のビジネス力も注目されています。ちなみに、永徳が子供の時から将軍の謁見などをしていたらしいです。となれば、狩野派自体が外交能力に優れていたのかもしれません。

狩野家のルーツ

狩野家の祖は室町幕府公認の絵師こと狩野正信です。狩野正信は室町幕府第6代将軍足利義教に富士山の絵を献上したことがきっかけで室町幕府に召し抱えられたという逸話が残されています。それ以降、狩野一族は絵師としてときの権力者から庇護されてきました。ちなみに、狩野正信のひ孫にあたるのが狩野永徳です。永徳たちはそうした中で江戸時代まで画壇をリードすることになりました。具体的には狩野派の成長にも尽力したり棟梁の地位を受け継ぎ流派の影響力を高めたりしたそうです。

狩野永徳の人生

このように、狩野永徳は権力者が認める絵師でした。では、どんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

永徳は1543年狩野派三代目頭目である狩野松栄の息子として生まれました。永徳は幼少時から美術教育を受け、早い段階で才能の片鱗を見せたと言われています。また、彼は権力者とも縁があり、9歳から10歳あたりには当時の将軍である足利義輝に謁見していたそうです。

2.20代の時から活躍


20代の時には五摂家の主要格・近衞家に障壁画を描いています。そして、その同時期には後世でも現存している「上杉本 洛中洛外図屏風」や「花鳥図襖」を制作しました。このように、永徳は棟梁の地位も狩野松栄から受け継ぎ狩野派四代目として活動していくことになります。その中でも永徳の作品は年代などによって精密描写の細画様式と壮大な描写の大画様式に分かれているのが特徴です。

3.信長に認められる

永徳が30代中盤になる頃には信長など当時の権力者から依頼も増えていきました。信長からは安土城の障壁画制作を依頼されこれを門弟たちと協力してこなしています。ちなみにこの時期は需要や作業量の関係で画風はこれまでの細画から大きく一変し、シンプルな構図だけど力強い大画様式の絵を独自に編み出していきました。このような大画様式の迫力あるモチーフや金地による華やかさは信長からも良い印象を持たれたそうです。

4.最期

信長が亡くなった1582年以降からは秀吉の御用絵師として活躍し大坂城の障壁画や聚楽第の障壁画を担当するなど大役を務めていきます。さらに、1589年には後陽成天皇の私的区域での障壁画を1590年には八条宮家の障壁画を手がけました。ですが、1590年の作業中に過労により永徳は病に伏せ、再起をはかれないまま永徳は48歳で亡くなりました。

狩野永徳の絵の特徴

彼の絵には特徴があります。インパクトある絵になるための何かというのか。そこら辺も話しますね!

1. 豪壮華麗

豪壮華麗は桃山絵画全体を特徴づける豪壮華麗な金碧様式で狩野永徳が画風として確立し狩野派以外にも広がっていきました。豪壮華麗は意味合い通り華やかさと立派な様子が同居した絵面は多くの権力者たちを魅了したそうです。ちなみに、狩野永徳が亡くなってからは豪壮華麗な様式はしばらく続いました。ですが、江戸時代になると需要に合わせて絵が瀟洒淡麗 といった軽い雰囲気の様式などに変わっていきました。

2.大胆な構図

例えば、「桧図屏風」構図では全体の画面半分程度に大きな檜の木を配置しています。また、広がる枝も画面端に届きそうなくらい伸び伸びと描写されているそうです。こちらです!

ちなみに、こうした構図は彼が細画を描いていた時期にはあまり見られてないそうです。となると、大画や豪壮華麗な様式への移行に応じて盛り込まれていったと思われます。

3. 力強い筆致

様々な絵に迫力あるモチーフの存在感を高めたり随所にしっかりとした筆の調子が見せたりしているそうです。このような筆致をすることで木や岩などを描くときに緩やかな空気感の中にメリハリをつけた絵ができます。

狩野永徳の代表作

彼の絵に関しては災害によって作ったものが失ってしまったものもあります。ただ、残っているものの中でも代表作をこれから話しますね!

1. 上杉家洛中洛外図屏風

1574年に信長が謙信に贈ったと伝えられる作品です。これは1565年に室町幕府第13代将軍の足利義輝の命で描かれた絵です。信長はこの絵を上杉謙信に贈ることで室町幕府将軍家と京都は信長の手の中にあるということをアピールする狙いがあったと言われます。

ちなみに、この絵を描いたとき永徳はまだ23歳でした。絵の特徴としては金箔と金泥を丁寧かつ大胆に塗り重ねた構図は永徳がすでに天才絵師の域に達していたことを示しています。また、絵の特徴としては祇園祭の「山鉾巡行」、闘鶏に興じる人々など当時の京都の景色・風俗が描かれておりのちの浮世絵の原点になりました。現在は国宝指定され、「米沢市上杉博物館」に収蔵されています。

2. 唐獅子図屏風

1582年に信長が本能寺で討たれたとき秀吉が毛利家へ和睦の証として贈るために持参した物と言われています。ちなみに、近年の研究でこれは最初から屏風図だったのではなく秀吉が所有していた城の障壁画を屏風に仕立てた物であることが分かってきました。また、最初から合戦の場に持参するのも不自然なため和睦の証に贈ったという説に異論をはさむ研究者も増えてはいます。とは言っても、とは言え、作品の価値は少しも色あせることはありません。現在は国宝に指定され、宮内庁所管の「三の丸尚蔵館」に収蔵されています。

まとめ

「豊臣兄弟」の主役でとあふ秀長が統治した大和国は筆で有名だったそうです。そのエピソードはドラマにも出てましたね。その際に永徳と秀長はかかわったらしいです。表向きは秀吉との関わりが強いのでそこで接点があったとはと思いましたが。実際に秀長が推進した巨大な造営・天下普請の事業を永徳率いる狩野派が絵画制作の面で全面的に支えたそうですからね。歴史的な史料に詳しいことは書かれてないですが。とにかく、二人には何かしらの接点はあったとは思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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