どうも、りかちゅうです!本能寺の変が起きてから権力を持ち出したのは秀吉です。なぜなら、本能寺の変で秀吉が十兵衛と戦って討ち取ったからです。それができたのは中国の大返しという異様なハイスピードで京に戻れたからです。10日以内に戻れたとかそれ以外の武将は行きたくてもみんなして戦に出てたのでそんな早くには無理でした。一体秀吉はなぜそんなことができたのか?この記事にて話しますね!
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中国の大返しとは?
中国大返しとは、1582年6月に秀吉が行った、戦国史上最速とも言われる大規模な軍勢の転進作戦です。当時、秀吉は備中高松城を包囲し毛利家と対峙していました。そんな時、本能寺の変こと十兵衛が信長を撃つという衝撃の一報が届きました。そこで、秀吉はすぐに毛利家と講和を成立させ全軍を率いて京へ向かいました。その際に秀吉は備中高松城から京の山崎まで約230kmという距離を10日もなく駆け抜け山崎の戦いで明智光秀を討ち取りました。
中国の大返しの経緯
本能寺の変の時に秀吉は中国攻めをしていました。そのため、その戦を早めに終わらせないと本能寺まで戻ることは無理です。では、どうやって中国攻めを一旦中止にしたのか?
1.水攻め大作戦
1582年春から秀吉は中国地方を支配する毛利家の重要拠点こと備中高松城を攻め落とすべく大軍を率いて岡山に入りました。備中高松城は沼城呼ばる城です。沼や湿地に囲まれた天然の要害故の沼城です。そのため、正面から攻めても簡単には落ちません。そこで、秀吉は日本史上最大規模の水攻めをしました。
水攻めとは大規模な堤防を築いて足守川の水を引き込み城ごと水没させる作戦です。工期わずか12日というスピード工事で完成した堤防によって備中高松城は水に浮かぶ孤島になってしまいました。それなのに、その高松城城主こと清水宗治は降伏を拒否して籠城を続けます。そのため、毛利家の主力部隊も救援に駆けつけてきました。その影響で秀吉と毛利家の軍は対峙したまま膠着状態に入ります。
2.本能寺の変が起きる
この戦いの中、ある出来事が起きます。それは1582年6月2日に本能寺で十兵衛が謀反を起こし信長が討たれました。本能寺の変です。本能寺の変はこちらの記事を見てください!
秀吉が本能寺の変のことを知ったのは十兵衛が毛利家に送った密使を秀吉軍が捕らえたことや京の豪商から使者が届いたからだそうです。どうやら、6月3日の夜から4日の未明にかけて秀吉にその知らせが届いたとされています。京から備中までおよそ180km離れています。それなのに、わずか1日から2日で伝達できたのは当時としては異例の速さでした。
3.あえてデマを流す秀吉
その知らせを受けた秀吉はその情報を極秘にします。なぜなら、信長が死んだことを知ったら毛利軍が勢いづいて攻め込んでくるかもしれないからです。講和が成立していない段階だから尚更です。逆に秀吉は信長が大軍を率いて援軍に来るぞと嘘の情報を流して毛利側に強烈なプレッシャーをかけました。 そして、官兵衛に交渉を任せたことで相手が状況を理解する前に超スピードで和睦を成立させてしました。
4.交渉内容
秀吉は本来なら領土を大きく削る条件を提示していました。ですが、事態が事態なので高松城主の清水宗治の切腹のみを条件としました。このよつに、迅速な判断で毛利の不戦を確保したことが、全てを可能にし、6月4〜5日には講和を成立させました。
いざ大返し!
中国攻めの交渉が成立したことでいざ大返しです。では、どう大返しをしたのか?
1.姫路城まで走り抜く
秀吉は6月6日に備中高松城を出発しやした。これが中国大返しの実質的なスタートです。全軍約2万〜2万5千の兵が一斉に京へ向かいます。そして、6月7日に姫路城に到着しました。この姫路城が大返しの最初の大きな中継地となりました。秀吉ひ姫路城での滞在は短かったものの、秀吉は重要な決断をします。
秀吉は姫路城の城内に蓄えていた金銀財宝を全て兵士たちに分け与えたのです。姫路城は秀吉が中国攻めの拠点として整備していた城で相当量の財が蓄積されていました。そのおかげでこの資金配布の後に行軍速度が一段と上がったと伝えらています。ちなみに、高松城から姫路城までの約70kmを、悪天候の中わずか約24時間で移動した記録は世界の軍事史に残る異常な速さだそうです。
2.姫路城から山崎まで
秀吉は6月9日に姫路城を出発し10日に明石・兵庫を経由しました。そして、11日に尼崎に到着しました。ここで摂津の諸将と合流し兵力をさらに増強します。この距離が69kmです。そして、13日に京都の山崎に到着し同日に十兵衛の軍と山崎の戦いをしました。以上が中国の大返しです。約25000の軍が230kmを7日間で移動しました。にしても、秀吉軍の兵士たちは倒れずに走り続けられたのでしょうか?
秀長の活躍
このハイスピードで移動できたのは走りながらでもご飯があるのはもちろんのこと、夜でも道が明るく見え疲れたら新しい草履がある環境あらかじめ用意されていたのです。 それを手配したのが秀長でした。
1.食糧の手配
秀長は官兵衛が和睦交渉をしている裏ですでに軍を動かすための兵站を完璧に整えていました。兵站とは軍隊に食料や物資を補給し続けるシステムです。まず秀長は進軍ルート上にある村や寺、豪族の屋敷に先回りして使者を送り「軍が通るから大量のおにぎりと、味噌汁、飲み水を用意しておけ! 煮炊きの煙を絶やすな!」と指示を出していました。 これで、兵士たちは休憩して火を起こして自炊する必要が一切ありませんでした。
2.村人にも報酬を
村人もタダでは働きません。 秀長は姫路城の金蔵を空にして金銀や米を村々に配りました。その際に 協力すれば金と米をやる。だが、断ればどうなるかという飴と鞭を使い分け街道沿いの村人を総動員させたのです。
また、夜通しなことを考えて街道沿いに篝火を焚かせ、夜でも昼間のように明るくしました。さらに、草鞋こと兵士の靴は長距離移動ですぐに擦り切れます。そのため、軒先に大量の替えの草鞋をぶら下げさせ、兵士が自由に履き替えられるようにしました。ここまで用意周到だからハイスピードで本能寺まで戻れたんです!
なぜ秀吉は十兵衛を撃てたのか?
十兵衛は秀吉が戻ってくるまでどんなに早くても2週間から1ヶ月はかかると計算していました。その間に十兵衛は細川藤孝や筒井順慶といった味方を増やし、迎撃の準備を整えるつもりでした。 ですが、秀吉があまりに早すぎたため十兵衛は味方を集めきれず準備不足のまま決戦を強いられます。
一方の秀吉軍は秀長の手配のおかげでいち早く戻ってくるだけでなく中川清秀や高山右近といった武将たちも次々と秀吉に味方しました。 そのけつ秀吉軍は4万、光秀軍は1万数千。勝負は戦う前に決まっていました。結果、山崎の戦いは秀吉軍の圧勝です。
秀吉は本能寺の変を前々から知ってた?
この説はあります。なぜなら、こんな秀長の手配があってもハイスピードで戻れることがあの当時では奇跡すぎるからです。今の時代のように車なんてないですからね?あと、武士だから服装など重い中のハイスピードの移動となれば奇跡的すぎます。それもあって、秀吉は前々から本能寺の変が起きていた、いや起こることを知っていた説があります。なんな。本能寺の変の黒幕は秀吉説もあります。まあ、そう言われるのも無理ないくらいのハイスピードですけどね?
まとめ
今の時代でもないのにここまでハイスピードでできるのは謎が多いですね。秀長の準備だって色々時間がかかるものですからね?金銭面が絡んでいるなら尚更のことです。それなのに、こんなハイスピードでできたのは精鋭部隊でもいたのか。それとも本当に事前に知っていたから手配も何もかもできていたのか。本能寺の変は謎が多いからその中国大返しも謎な一面はあるのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう