どうも、りかちゅうです!道隆が亡くなってからは道長が権力を握るようになりましたね。それでも、諦めてない人はいます。それは道隆の嫡男こと伊周です。彼は道長との権力争いに負けてしまいました。長徳の変で流罪にされたことが何よりの敗因ですが。ただ、伊周は流罪が許されて帰京してから道長を暗殺しようしていたという噂がありました。また、伊周は加担してないですが関係者が彰子などを呪ったとか。何事と思いますね。ですので、この記事にて話しますね!

伊周と道長の対立

伊周は道隆の息子です。そのため、道隆がいなくなったら後継は嫡男の伊周ではあります。ですが、その夢は叶えられませんでした。理由は道長との対立に負けてしまったからです。ですので、その話をこれからしますね!

道隆の後継者になれなかった伊周

藤原伊周は藤原道方の子として生まれました。若くして内大臣に昇進しその権力は伊周のおじさんにあたる道長さえも上回るものだった。ですが、道隆の弟こと道兼亡くなるとその後継者となったのは伊周ではなく道長でした。そのため、伊周は道長に敵意を持ちました。

長徳の変で伊周のメンツがなくなる

996年に長徳の変で伊周はメンツがなくなりました。実は伊周は花山法王にヘイトを溜めていました。その理由は花山法皇は伊周の恋人と恋愛関係にあると勘違いしてしまったからです。そこで、伊周は弟の隆家と花山法皇に衣の袖を射抜きました。もちろん元天皇にそんなことをしたら大問題になりました。その結果、伊周・隆家兄弟は罪を問われ左遷されました。

京に帰還と定子の死

2人の罪は許されたものの、表に出ることはできませんでした。メンツを無くしたならば尚更ですね。さらに、1000年に一条天皇の中宮だった定子が亡くなりました。これは2人にとって悲報です。理由は定子は伊周の妹だからです。となると、2人が後ろ盾が無くなったと言っても過言ではないです。とは言えども、のちに伊周は従二位に叙され参内も許されてはいます。

伊周と隆家の希望

このように、伊周は定子がいなくなって後ろ盾がいなくなりました。これは伊周と道隆は返り咲きできないですね。だた、2人には定子の子供こと敦康親王がいました。この子がいれば身内として返り咲けると。え?でも、一条天皇には道長の娘こと彰子がいるのではと思いますよね。それはそうです。ですが、その時は彰子の懐妊の兆候はみられず、道長は焦っていたようです。

彰子の出産願いと伊周の暗殺計画

このように、彰子はまだ一条天皇との子供ができていません。そこで、道長は出産願いのためにお参りをしました。その際に伊周と隆家が道長の暗殺計画を立てたと。一体どのようなものだったのか?

1.金峯山で出産願い

金峯山の金峯山寺は吉野山や山上ヶ岳などの連峰で修験の山にある寺です。となると、急峻な山道や断崖を行くことになります。これは相当な覚悟が必要でした。それでも道長は1007年5月に家司の源高雅の邸宅で100日間の精進を始め長男の頼通や中納言の源俊賢など17人から18人の近臣たちとともに京の寺社を参詣してから1007年の8月2日に京を出発します。ちなみに、「道長暗殺計画」の噂が流れたのは9日です。その時道長はは雨の中金峯山を登っているところでした。また、11日には蔵王権現などを巡詣し子守三所権現で金銀、五色の絹をはじめ莫大な献上品お経を奉納しました。その効果があったからなのか彰子は懐妊し1008年9月に敦成親王が生まれました。

2.あくまで噂話である?

1007年8月14日に道長一行は無事帰京しました。その道中に何者かに狙われたとか危険な目に遭ったという記録はないそうです。そのため、藤原伊周が本当に道長暗殺を企てていたのかは結局迷宮入りではあります。

一方の伊周は「伊周が道長を暗殺しようとしたという噂が流れている」という事実を知った時ただちに道長に弁明しようとしたそうです。また、伊周は道長と対面したときかなり焦った様子だったそうです。それから伊周は処罰されていないです。そう考えると道長暗殺計画は単なる噂だった可能性の方が高いと言われています。

3.伊周と道長の双六

「大鏡」は道長帰京後に伊周は例の噂件に関して釈明をするため道長邸を訪問したそうです。ですが噂の真偽には触れていません。ただ、この対面で道長は気後れした伊周に双六勝負を持ちかけます。その双六は高価の物を賭けての勝負だそうです。どうやら2人は夜明けになるまで熱中したとらしいです。結果は伊周は負けっ放しだったそうです。ただ、伊周の負け様は「大鏡」によればわざとだったとか?道長をあえてヨイショしたかったのかもしれませんね。あと、伊周は足の裏に「道長」と書き踏みつけて歩いていたとする逸話もあります。

彰子と敦成親王への呪詛が発覚

このように、伊周が道長を暗殺しようとしていたという話は噂のみだった可能性が高いです。ですが、その後呪い話が浮上しました。ですので、その話をしますね!

1.彰子と敦成親王への呪い

1009年1月30日に道長と彰子敦成親王への呪詛が発覚します。厭符というまじないの札が出てきたことが証拠です。その際に逮円能という僧を取り調べた記録が「政事要略」という史料にあります。それによると、円能は1008年12月中旬に佐伯公行とその妻の高階光子、源方理に呪詛を頼まれたことなどを自白しました。

2.道長の対応

「権記」によると道長は「わが身の大事だ」と出仕を渋ります。暗殺計画の噂よりも呪詛事件の方がよほど恐ろしかったということでもありますね。まあ、当時の貴族としてはそれは普通の感覚だそうですよ?平安時代は陰陽師に頼る風潮もありましたしね。ただ、6日後に道長は政務に復帰しています。なお、道長自身はこの事件に関して「御堂関白記」に何も書き残していません。

3.犯人は伊周回周りの人

呪詛事件関係者は伊周に近い人ばかりでした。事件発覚翌日に謹慎させられた高階明順は伊周のお母さんこと貴子の兄弟でした。また、呪詛依頼者として官位を剝奪された高階光子は貴子とは姉妹関係です。さらに、源方理は伊周の妻の兄弟です。

また、犯人とみなされた人の中には定子と近い人間もいました。このようなことを踏まえても、犯人は敦康親王支持が呪詛をしていたのかなと思われます。伊周を返り咲かせなかったのかもしれませんね。

4.伊周はどうなったの?

伊周は事件への関与が不明のまま出仕停止になりました。一応、3カ月後に許されまけどね。とは言えども、伊周はその翌年37歳で死去します。

敦康親王派の排除

狙われた道長ですが、結果的にダメージは受けませんでした。逆に敦康親王支持派の排除ができるチャンスと捉えていたのか。なぜなら、一条天皇は皇位継承について第1皇子は敦康親王で第2皇子は敦成親王と考えていたからです。

これは道長にとってはいい思いはしないかと。だって、外孫である敦成親王をなるべく早く皇位継承者にしたい思惑という思惑があるからです。外祖父として活躍するためには自分の孫が後継者でいないと叶いませんからね。そのため、呪詛事件の顚末は道長にとっては都合のよい成り行きではあります。

まとめ

伊周は道長が権力者になってからそこまで妬んでないのかもしれませんね。本当に妬んでいたならば暗殺計画は噂止まりにならないと思いますし?ただ、少しくらい野心はあったのかなとは思います。その野心が暗殺計画の噂になったのかなと。それ以上に伊周の周りの方がムキになっていたと思います。以上です!もう最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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