どうも、りかちゅうです!柴田勝家は知っている人は多いかと思われます。戦国大河では定番の人物ですからね。現に勇敢で戦でもかなりの功績を残しましたから。ただ、信長が亡くなってから勝家は秀吉と争うことになるなど騒がしかったです。それもあって、最期は幸せでもあり儚い人生を歩みましたが。このように、勝家は騒がしい人生でした。ですので、この記事にて彼の話をしますね!

柴田勝家のプロフィール

柴田勝家のことは知ってる人はそれなりにいるかと。ただ、おさらいとしてプロフィールから!

名前 柴田勝家

生年月日 1522年

没年 1583年6月14日

備考

信長の家臣の1人です。勇敢で戦に長けていたそうです。また、お市の方の再婚相手でもあります。ただ、最期は賤ヶ岳の戦いで自決しました。

柴田勝家の人生

以上が勝家のプロフィールです。では、彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

勝家1522年または1530年に尾張国愛知郡の下社城で生まれました。お父さんは斯波家の流れをくむ柴田勝義とだそうです。勝家の幼名は権六で知恵と勇気を持ち合わせた子だったそうです。そのため、信長のお父さんこと織田信秀は勝家の才能を認めたそです。どうやら織田信秀は勝家を自分の居城に招き入れ文武の道を教え始めとか。この出来事が織田家とのご縁を結ぶきっかけとなりました。

2.信勝を推す勝家

1549年に織田信秀が死去すると信長の弟こと織田信勝の家老になります。みなさんご存知かもそれませんが若い頃の信長は奇行が目立つ「大うつけ」として有名でした。一方で信勝は礼儀正しく有能と言われていたため勝家などの家臣は信勝を後継者にするために信長打倒計画を立てました。

その計画が実行されたのが、1556年8月24日の城山八幡宮付近を舞台とした「稲生の戦い」でした。勝家は信勝の近臣こと林秀貞やその弟の林通具と共に信長が築いた名塚城現在のを攻めました。戦力としては勝家は約1000人で林兄弟は約700人です。一方で信長は約700人と半分です。なのに、激戦の末に信長が圧勝しました。さらに、林通具が信長の手によって討ち取られたため信勝の居城であった末森城が信長勢に包囲されてしまいました。

3.信長の家臣になる

この戦いで信長は自分のお母さんこと土田御前の懇願を受け入れ居城の清洲城へ退陣しました。一方で信勝はかろうじて命拾いしました。また、勝家や林秀貞も信長に謝罪し信長に忠誠を誓うことで許されました。

ただ、信勝は稲生の戦いでの大失敗にも懲りず1558年にはまた信長殺害を計画します。ですが、勝家は信勝を見限っていました。そこで、勝家はそのことを信長に密告しました。その話を聞いて怒った信長は信勝の暗殺を決意しました。その際に勝家は信長が重い病にかかったと信勝に嘘をつくことで信勝を清洲城へ行くように唆しました。そして、信勝は城内で池田恒興達によって殺害されました。この一件によって、勝家は信長の家臣となりました。

4.鬼柴田な勝家

勝家は戦においてかなりの活躍を見せました。実はその当時織田家の家臣4名の特徴を表した小唄ががありました。こちらです

木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間

意味

木綿のように地味だが実用的で重宝する秀吉、米のようになくてはならない存在の丹羽長秀、勇猛で突撃に掛かる勝家、退却戦が上手い佐久間信盛

実際に勇猛担当の勝家は美濃攻略をはじめとする重要な戦には主力武将として参戦すしその勇敢な戦いぶりをしていました。そのため、「鬼柴田」と恐れられるほどでした。また、小唄の「掛かれ柴田」と言われた背景には勝家はかつて信長を裏切ったからそれ以降信頼を得ようと必死であった戦闘姿から来ているそうです。要するに、勝家は戦があると知ればすぐに戦場へ駆け付け最も危険な役目である先鋒を自分からやっていたってことです。

 

5.勝家の功績

勝家の武功例として、1560年の桶狭間の戦いや、1564年の「犬山城攻略」などが挙げられます。さらに、勝家は信長の家臣となってから10年が経過した1568年には義昭がいる京での守り役に抜擢しました。これで勝家は信長の重臣として実力を認めました。それからも勝家の躍進は続きます知りません。なんと1570年には、近江国の長光寺城に配属し六角家や浅井家の抑止力としての役目を任されていました。

それ以外にも1570年6月の姉川の戦いや1571年5月の長島一向一揆などにも従軍し浅井家と朝倉家攻略したり1575年5月の長篠の戦いにも参加したりして武功を挙げました。

6.越前の配属と本能寺の変

1575年9月には信長の命令を受け越前一向一揆を徹底的に討伐しました。その功績として、越前国49万石を与えられています。それから、1580年11月には鳥越城を落城させ長年に抵抗し続けた加賀一向一揆の最終的な鎮圧に見事成功しました。さらに、1582年6月の魚津城の戦いでは上杉景勝が治める魚津城を6月3日に陥落しました。

ただ、6月2日に本能寺の変は起きて信長は亡くなっていました。勝家その事実を知ったのは織田信6月5日以降だったそうです。勝家は急いで京まで戻ろうとしたものの途中で再度攻撃を仕掛けてきた上杉軍に阻止されてしまい京に6月13日に到着しました。秀吉よりも遅く到着したことは勝家今後の歯車を狂わせました。

7.清洲会議

1582年6月27日に信長の後継者を決める清洲会議が行なわれました。会議の参加者は清須会議4宿老と言われる秀吉、丹羽長秀、池田恒興、当時の重臣筆頭だった勝家でした。その際に対立が起きました。秀吉は信長の長男の信忠の嫡子でこと三法師を推しました。当時3歳でのちの織田秀信です。一方で勝家は烏帽子親となっていた信長の3男の信孝を推しました。その2つの意見が割れて色々あったものの最終的には秀吉が主張した長子相続の考えを丹羽長秀が支持したことにより後継者は三法師に決定されました。

 

8.秀吉に立場を取られる

清須会議では後継者の決定と併せて信長が管轄していた領地の再配分も実施されていました。その結果、秀吉は本領としていた近江長浜の地を勝家に譲り、河内・丹波・山城・播磨を獲得しました。となると、勝家が再配分によって得た領地は自身の所領であった越前と秀吉の旧領であった近江長浜だけってことになります。要するに、領地の取り分においても秀吉が優位に立ってしまったことで勝家との立場が逆転してしまいました。それくらい十兵衛を討伐した秀吉の功績は絶大な影響をもたらしていたことになります。

 

 

9.お市の方と再婚

勝家は信長の妹ことお市の方とご縁があって結婚しました。このとき、柴田勝家は60歳で3人の子持ちのお市の方は35歳で歳の差は25歳もありました。ですが、実は勝家は信長に初めて仕えたとき、当時10歳前後のお市の方を見て一目惚れしていました。これは長年の恋が叶ったことになりますね。もちろん、お市の方も勝家との生活を幸せと思っていたそうです。ですが、そんな幸せも束の間です。勝家のラスト戦こと賤ヶ岳の戦いが始まります。

 

10.賤ヶ岳の戦いと最期

1583年6月13日に賤ヶ岳の戦いがおきました。理由は秀吉は勝家の権力争いです。賤ヶ岳の戦いで勝家は一旦は利家を味方にしました。ですが、利家に裏切られ勝家は総崩れして退却しました。その翌日、勝家は腹を十文字に割いてお市の方と共に自害しました。その際に勝家はお市の方の連れ子3人を脱出させました。その3人はみなさんご存知かと思いますが秀吉の元に行きました。

政治力もたけてた柴田勝家

勝家は戦での活躍だけでなく政治にも長けていたそうです。ですので、その話もしますね!

1.越前を一大都市にする

1575年に勝家は信長から北陸方面軍における総帥を任され越前国北庄の地を与えられました。それで、1576年に北ノ庄城を築き一大都市にしました。そのようになった要因はまず城下町を建設する時には勝家が滅亡させた朝倉家の拠点であった一乗谷から商人や職人を呼び寄せたからだそうです。また、協力的な社寺に対してはその領地を安堵したり、有力商人には特権を認めたりするなど民政運営に必要な施策を実施したそうです。さらに、北陸街道の拡充や足羽川に九十九橋を架ける工事をはじめるなど領内整備にも力を注いだそうです。

 

2.秩序を守ることに重きを置く

勝家が越前国を統治する際に信長は9ヵ条の掟を課しお目付役として利家たちを配置していました。ですが、勝家は1576から1578年には秀吉に先んじて刀狩を実施し1577年には検地を行なっています。また、当時は一向一揆が制圧されて間もない時期だったから治安維持を目的とした「北庄法度」を発令しました。さらに、荒廃した農村を復興させるために農民が農業に専念すべき旨を定めた掟書も公布しました。

まとめ

勝家は最期は自決ではありますが最期は幸せな人生ではあったんでしょうね。長年の恋焦がれていた相手と再婚できる、その結婚生活は幸せだったなら尚更。まあ、最期は自決となりましたが。ちなみに、お市の方だけは自決してほしくないと思ったものの本人がそれを選んだそうです。これを見ても、勝家は出世よりも大切なものを選んで人生を終えたのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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