どうも、りかちゅうです!本能寺の変が起きたことで救われた戦国武将がいました。それは長宗我部元親です。信長との戦いに巻き込まれるかと思いきや本能寺の変のおかげで、彼はなんとかなりました。ただ、長宗我部家は長宗我部元親の時がピークでそれ以降は残念な結末になってしまいました。とは言っても長宗我部元親は面白い人材です。ですのでらその話をこれからしますね!
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長宗我部元親のプロフィール
長宗我部元親は四国の戦国武将です。幼い頃はか弱い感じがあったのに初陣ではかなりの功績を上げました。生き方も下剋上ですね。では、彼はプロフィールはどのようなものか?
名前 長宗我部元親
生年月日 1539年
没年 1599年7月11日
備考
長宗我部家の21代目です。破天荒な形で戦に勝っていた人物です。にしても、こんなに続いている家だとは思ってもなかったです。長宗我部家のルーツは後ほど話します!
長宗我部家のルーツ
長宗我部家は戦国時代の土佐で勢力を伸ばした土佐七雄と呼ばれる有力豪族のひとつでした。
ですが、長宗我部元親が生まれる前の1508年に長宗我部元親おじいちゃんこと長宗我部兼序の代に襲撃を受けて岡豊城を追われ長宗我部家は衰退してしまいました。そんな長宗我部家を再び大きな勢力に盛り返したのが長宗我部元親のお父さんこと長宗我部国親でした。長宗我部国親は長宗我部兼序が岡豊城を追われた10年後に土佐の国司一条房家の助けがあっあことで豊岡城主に復帰しました。そして、1547年に長宗我部国親は土佐国長岡郡南部を制圧します。
長宗我部元親の人生
以上が長宗我部元親のプロフィールです。では、彼はどのような人生を送ったのか?
1.生い立ち
長宗我部元親は1539年に長宗我部国親の嫡男として生まれました。お母さんは美濃の斉藤家の娘だと言われています。長宗我部元親は色白でおとなしい子だったので「姫若子」と呼ばれていました。これは当たり前ですが褒め言葉ではないです。なんなら、本を読んでばかりで物静かだから武将としては使い物にならないだろうという嘲笑の意味があります。このように、家臣からも期待をされていなかった長宗我部元親が一転するのは初陣の「長浜の戦い」の時です。
2.初陣でヒットする
長浜の戦いは長宗我部国親が仇敵の本山家などに娘を嫁がせ香宗我部氏に3男の長宗我部親泰を養子に出して勢力下に置くなど長宗我部家の勢力が拡大していく時に起きた戦いでした。当時は15歳で初陣を飾る武将が多い中長宗我部元親は22歳という遅い初陣になりました。のんなら、元親は鑓の突き方も知らなかったんです。そこで、長宗我部元親は家臣の秦泉寺豊後に尋ねました。その際に寺の人は「敵の眼を突け」とアドバイスしました。
そのアドバイスのおかげで周囲の予想に反して自ら槍を持って突撃するという大活躍します。なんと長宗我部元親は50騎ほどで敵中突撃を敢行し2人を討ち取る功をあげたといいます。その豹変ぶりに周りは驚きました。この活躍で長宗我部家は土佐国で最大の勢力を誇っていた本山家に勝利しました。このようにいきなり活躍を見せた長宗我部元親は「姫若子」から「鬼若子」と称されるようになりました。そして、長浜の戦いから間もなくして長宗我部国親が急死しました。それ故に長宗我部元親は家督を継ぎ四国統一に向けて歩み始めます。
3.土佐統一
長浜の戦い以前の長宗我部家は土佐国長岡郡岡豊を掌握しているにすぎませんでした。ですが、長浜の戦いよって形成は逆転し1568年には長年競ってきた本山家を本山城にまで追い詰めて降伏させたことで長宗我部元親は土佐中部を制圧することに成功したのです。それ以降、1569年に長宗我部元親は土佐東部を支配していた安芸国虎と衝突し八流れの戦いが勃発しました。長宗我部元親は安芸国虎を自害に追い込んで勝利しました。
これで、土佐平定の最後の障害は土佐西部を支配している一条家のみとなります。一条家とは1575年に長宗我部元親は土佐にある四万十川で一条兼定と四万十川の戦いをしました。この戦では長宗我部軍の兵力による有利と地の利を活かした戦術が効果ありました。さらに、一条軍は寄せ集め軍のせいで統率がうまく取れなかったため数時間で長宗我部軍が勝利したそうです。これで長宗我部元親は土佐を統一しました。
4.信長との関係と本能寺の変
土佐統一後に長宗我部元親は信長から四国での勢力拡大を容認されました。長宗我部元親は「四国は自分の実力で奪った分は領土として認める」と信長の朱印状を与えられたといいます。また、信長と長宗我部元親はお互いの正室が共に斎藤家の出身であることから同盟を結びました。その後、長宗我部元親は阿波国へと侵攻して有力な勢力を次々と降伏させていったのです。
それなのに、1581年に長宗我部元親にとって予想外のハプニングが起きました。なんと、信長が長宗我部元親との同盟を破り三好康長とちなみに、同盟を結んで四国征伐を決定したのです。信長が長宗我部元親を陥れる行動を取った正確な理由は出てきていません。そんな窮地に陥った長宗我部元親を救ったのは1582年に起きた本能寺の変です。あの謀反で信長が十兵衛により討たれたました。そのお陰で長宗我部元親は信長と争う機会がなくなり危機を切り抜けられました。
5.四国をほぼ統一
その後、長宗我部元親は四国侵攻を継続し、1582年には阿波国のほとんどを掌握しました。そして、2年後の1584年には、讃岐国大部分ほとんど制覇。さらに、伊予国にも侵攻し四国のほとんどを手中に収めたのです。また、信長は毛利家と敵対していました。ですが、長宗我部元親は毛家とも密かに良好な関係を保っていました。長宗我部元親は外交力は強いそうです。そして、1585年の春に長宗我部元親は四国統一を果たしました。
※長宗我部元親の四国統一に関しては研究者によって成し遂げられていなかったのではないという見解をしている人もいます。
6.秀吉に降伏
四国をほぼ統一した長宗我部元親にとって秀吉は悩みどころではありました。秀吉は信長が亡くなってから全国統一に向けて勢力を拡大していました。もちろん、四国も平定したいと秀吉は考えてていました。そこで、1585年に秀吉は秀長を総大将とする四国討伐隊を結成しました。なんと、10万を超える豊臣軍が四国に攻撃を開始しました。
長宗我部軍は各地で奮戦するものの、多勢に無勢でした。その影響で讃岐、伊予、阿波などの城が秀良に攻略されていきました。そのため、長宗我部元親はわずか1カ月余りの攻防の末元降伏を決意しました。阿波、伊予、讃岐を取り上げられ、土佐一国のみを安堵されます。
7.嫡男の死
1586年に豊臣配下になった長宗我部元親は秀吉の命によって大友家の救援で島津家と戦うも敗北していました。この戦で長宗我部元親の長男こと長宗我部信親を亡くしてしまいました。大切な跡継ぎを失くしてしまった長宗我部元親はその後人が変わってしまいました。なんと、長宗我部元親は次男の香川親和や三男の津野親忠が存命であるにもかかわらず、溺愛していた4男の長宗我部盛親の家督相続を強行しました。次男も三男も他の家に養子になっている影響はデカいのかと。それで、長宗我部元親はこの意向に反対する者は例え一族であっても粛清すると言い張るなど非道な行ないが目立つようになりました。
8.秀吉の家臣時代の長宗我部元親
長宗我部元親はその後豊臣家の大名として小田原征伐や朝鮮出兵に従軍しました。1590年の小田原征伐では水軍を率いて参戦しました。その後の1592年からの文禄の役でも長宗我部盛親と共に朝鮮へと渡りました。
一方で土佐領国内では1597年に家臣や領民の規範となる分国法の「長宗我部元親百箇条」を制定するなど統治の安定にも力を入れました。ただ、この時期には1596年にキリスト教の宣教師を巻き込んだサン=フェリペ号事件などの複雑な外交問題も発生しました。長宗我部元親はこれに対処するものの、結果的には秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作ってしまいました。
9.秀吉の死後の長宗我部家
1598年に秀吉が亡くなると家康が急激に台頭し不穏な空気が生まれます。もちろん、伏見の屋敷にいた長宗我部元親のもとへ家康が訪問するなど長宗我部元親もその空気に翻弄されていきました。
そんな中、土佐に戻ってから長宗我部元親元親を追い詰めたのは家中のトラブルです。なんと、三男の津野親忠が四男の長宗我部盛親の家督継承を不満に思っているというこの讒言が流れていた。それを信じた長宗我部元親は浅野親忠を幽閉してしまいます。前々から長宗我部盛親を後継にしないとダメだと言い張ってたから尚更この戯言を信じたんでしょうね。
10.最期
この事件の直後に長宗我部元親は体調を崩します。病気療養のため上洛して伏見屋敷に移るものの、病状は悪化する一方でした。さらに、京都や大坂から名医が呼ばれるも回復するのが厳しかったそうです。
このように、長宗我部元親は死の直前に至っていました。そこで、長宗我部元親は長宗我部盛親に対し今後の戦陣において「布陣の変更禁止」を命じました。桑名弥次兵衛が先陣、久武内蔵助が中陣、宿毛甚左衛門が後陣たそうです。この布陣が長宗我部元親にとって最後の采配でした。そして、1599年に長宗我部元親は亡くなりました。享年61歳でした。
その後の長宗我部家
次男の香川親和は悲嘆の中で病死したした。三男の津野親忠は長宗我部盛親に殺害されてしまいます。一方で長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで西軍につきた。もちろん、関ヶ原では東軍が勝ったので長宗我部盛親は大名から浪人へ転落されました。改易された理由については、兄殺しを家康に咎められたという説が有力です。
ただ、長宗我部盛親は再び大名に返り咲こうと豊臣方に味方して大阪の陣に臨みますが敗北しました。その後、長宗我部盛親は5人の息子もろとも斬首されて、長宗我部氏は滅亡したのです。ちなみに、長宗我部盛親も長宗我部元親に似て強かったそうです。大阪の陣で藤堂高虎軍を壊走させたとか。不利な中よく頑張れましたね。
まとめ
長宗我部元親は中学の時に戦国時代の番組をたまたま見てた時に長宗我部元親の存在を知りました。まだ四国統一をする前は長宗我部家は力がないのに勝つための工夫をしているところは面白かったですね。井戸の水に毒があると嘘ついて敵をほとんど死なせるみたいな戦略は印象的でした。それなのに、幼少期は弱々しいのは意外でした。また、長宗我部元親はその知略の持ち主なのに嫡男が亡くなって人が変わってしまった事実はショックでした。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう