どうも、りかちゅうです!信長にはお気に入りの側近がいました。その側近の名は森蘭丸です。彼は仕事が出来たそうです。本能寺の変の時も蘭丸は信長の側にいたそうです。また、信長と蘭丸はBLの関係だったとか。とにかく、蘭丸は信長との距離は仕事でも色恋でも近いです。一体どんな人物なのか?この記事にてその話をしますね!

森蘭丸のプロフィール

蘭丸は有名ですね。先ほども言いましたが信長が蘭丸を男色の相手にしたとか。信長相当お気に入りにしてますね。では、どんな人物か?そのためのプロフィールから!

名前 森蘭丸

蘭丸は幼名かつ通称で本名は森成利です。ただ、通称の蘭丸は本来であれば「蘭」ではなく「乱」の字を当てるとされています。そのため史料には「乱」「御乱」「乱法師」の名が出てきます。

生年月日 1565年

没年 1582年6月2日

備考

信長の小姓です。仕事もできて美少年だったためかなり気に入られていたとか。蘭丸は本能寺の変の時も信長の側にいました。

森蘭丸の人生

以上が蘭丸のプロフィールです。彼は若く亡くなったののの話すことは沢山あります。ですので、彼の人生ついて話しますね!

1.生い立ち

蘭丸は1565年に森蘭丸は、6人兄弟の3男として尾張国葉栗郡で生まれました。お父さんの森可成は1554年信長の客将として迎えられ若い頃の信長を支えた武将でした。ですが、1570年に蘭丸が5歳のときに「宇佐山城の戦い」にて城を守りながら戦死してしまいました。一方で蘭丸は森可成の正室で斎藤家の家臣こと林通安の娘であるという説があります。ですが、一説では側室の高子がおかあさんという説もあります。

蘭丸は品行方正で武芸・学問に優れた立派な若者に成長したそうです。きっと、蘭丸は幼い頃から森可成に「信長に立派に仕えられるように」と厳しい英才教育を施されていたんでしょうね。

2.信長に仕える

蘭丸は1577年に13歳で信長の小姓として仕えはじめました。小姓とは主人の身の回りの世話だけでないです。奏者と呼ばれる取次役や検使、副状の発給、使者、来客の応対、各種の奉行など仕事内容は沢山ありました。その時蘭丸の弟の4男の森坊丸、5男の森力丸も一緒に信長の小姓として迎えられました。

信長の小姓となった蘭丸は信長の側で働きはじめます。その時蘭丸の仕事も忙しかったそうです。そのため、蘭丸は奏者として諸将への「武家伝奏」という武家の要請を朝廷に伝える役目を担当していたそうです。また、蘭丸は信長の小姓として身の回りの世話から家中・諸大名との取次など様々な雑務をこなしていました。このように、蘭丸は優秀な事務官として信長の秘書となります。

3.万見仙千代の仕事を引き継ぐ

信長には、検使である小姓こと万見仙千代がいました。万見仙千代は数多の戦場に派遣され活躍していました。ですが、万見仙千代は1578年に信長を裏切った村重の謀反に巻き込まれ戦死しました。その後、蘭丸はこの万見仙千代に代わり仕事を引き受けるようになりました。「信長公記」によると1579年に蘭丸は信長の指示で摂津国の塩川国満に褒賞である銀子100枚を届けています。このとき信長は塩川国満が蘭丸の容姿やふるまいに感激したそうです。

4.大名になる

信長は蘭丸の進言であれば素直に受け入れたそうです。さらに、信長に絶大な信頼を寄せられていた蘭丸は戦場で武功こそ挙げませんでした。ですが、その働きぶりが認められ1581年に織田家家臣として近江国500石が与えられ大名となりました。蘭丸は諸事奉行、加判奉行などの事務的な業務にも携わっていましたが他にも信長の使者や大名の取次役として多くの地に派遣されています。

ちなみに、甲州征伐では1582年に戦功を挙げた蘭丸のお兄さんこと森長可が信長から旧武田領の信濃国川中島四郡を与えられたそうです。

5.本能寺の変の直前の十兵衛事件

信長は同盟を結んでいた家康を招いて安土の地で歓迎することとなりました。その接待役として十兵衛が選ばれました。十兵衛は家康が宿泊すると決めてあった大宝院に急遽御殿を用意させ壁には絵を飾って御殿の柱には彫刻を施します。さらに、御殿の庭には珍しい植物を植えたり周囲の警備は厳戒態勢したりするなど準備を万全にしました。

このように十兵衛はかなりの準備をしました。ですが、信長は十兵衛を呼び「家康を招くときにこれほど手厚くもてなしたら朝廷を招く際にどれほど高価な対応をしなければいけないと思っているのだ」と怒りました。さらに、信長は十兵衛の頭を打て周りの人に命じました。ですが、十兵衛は織田家の重鎮です。そのため、彼の頭を打てるほどの身分や度胸のある人はそういないです。もちろん、信長は怒ります。そんな時、蘭丸は立ち上がり十兵衛を鉄扇で打ちました。十兵衛はその場を去りました。

7.本能寺の変が起きることを勘繰る蘭丸

十兵衛はその後も信長に厳しく叱責されていました。十兵衛は「大きな御恩があるため謀反など考えたこともありません。ですが、この仕打ちはあんまりです」と涙ながらに訴えます。その場で聞いていた蘭丸はこの発言こそが謀反の気配だと訴えます。ですが、信長は取り合いませんでした。なんなら、その話を無視して中国征伐に向かっている秀吉の援助に向かうように十兵衛に指示を出し大軍を与え出陣させます。

8.本能寺の変

1582年6月2日に秀吉から中国征伐の救援を受けていた信長は道中に京都にある本能寺に宿泊をします。そこでは、博多の豪商界隈こと「博多の三傑」の1人である「島井宗室」を正客にし、信長自慢の38種類の茶道具を披露した茶会を開いていました。また、本能寺には信長や蘭丸の他、小姓衆・厩番衆・中間衆などの使用人、女性なども合わせて100人程度がいたそうです。

一方で十兵衛ははその晩信長を討つため本能寺に13000の軍で攻め入りました。明智軍が本能寺を完全に包囲する形となったとき信長と蘭丸は殿舎にいたそうです。そして、6月2日未明に信長が「これは謀反か?誰の仕業だ」と問うと、蘭丸が十兵衛だと答えました。すると、信長は悟ったように「是非に及ばず」と答えたそうです。「麒麟がくる」では再現してましたね。

9.最期

蘭丸は最後まで信長の側を離れず多勢相手に信長を果敢に護衛しました。ですが、十兵衛の先発隊安田国継に討たれます。1582年(天正10年)6月、森蘭丸は18歳の若さで亡くなりました。また、信長の小姓となった蘭丸の弟こと森力丸、森坊丸も本能寺の変で戦死しました。

ちなみに、6男の森忠政は唯一生き残りました。忠政は1582年に織田信長の小姓となります。でふご、同僚にちょっかいを出されたことに憤怒した森忠政は信長の前で同僚の頭を扇子で叩きました。その行為がまだ幼すぎると森忠政は信長にみなされたため美濃の母親のもとに帰されたそうです。

森蘭丸の逸話

以上が蘭丸の人生です。18歳で亡くなるなんてあっという間ですね。それでも、信長のお気に入りだったからの逸話もあります。ですので、彼の逸話についても話しますね!

1.本当に美男子だったのか?

蘭丸は美少年としてという話はよくあります。ですが、本当に美少年だったのかと言うと違います。まず蘭丸のお父さんこと森可成は攻めの三左と恐れられるほどの腕前を持った武将でした。また、森蘭丸の2番目のお兄さんこと森長可は「鬼武蔵」と恐れられるほどの容貌を持った鬼武者でした。

一方で「信長公記」には蘭丸の容姿や立ち居振る舞いには品があったそうです。ですが、当時の美的感覚と現代の美的感覚では違う点はあります。蘭丸もお父さんとお兄さんと同じように美丈夫といって美しく立派な男だったのではないかと言われています。今でいう女の子ぽい男の子というよりかは男気ある美しさってところですね。

2.敵にも認められる蘭丸

蘭丸はただの秘書から信長お気に入りの秘書となっていきます。また、蘭丸の上品で堂々としたふるまいは信長の織田家の家臣団や敵にも認められていきました。ある時、蘭丸は信長と対立関係にあった上杉謙信の領地にスパイとして潜入することになります。ですが、上杉側にばれてしまい蘭丸は自害しようとします。ですが、蘭丸を見込んだ上杉謙信が許し、蘭丸に「城下を自由に見て回って良い」と許可したそうです。

このように蘭丸は、敵にも認められる素質がありました。信長はそれを誇らしく思い諸将や側近に蘭丸のことを自慢できる存在として「第一に白斑の鷹、第二に青の鳥、そして第三に蘭丸」と言っていたそうです。

3.蘭丸が所持していた城

蘭丸も森長可の所領であった美濃金山与えられています。さらに、蘭丸は信長から美濃岩村城を授かり、岩村の地5万石を治めることになりました。岩村城は「日本百名城」「日本三大山城」に選定されるほどの名城です。堅牢な石垣の造りが魅力的です。また、高低差があり霧が発生しやすい気象や地理条件を利用したため「霧ケ城」とも呼ばれていました。

ただ、城を貰えたものの信長の秘書として活躍していたため領地に赴くことができません。そのため、蘭丸は家臣を城代として派遣したそうです。ですが、蘭丸は結局その生涯で岩村の地を訪れることはありませんでした。

まとめ

18歳で亡くなったのにこんなに人生が濃いなんて思ってもなかったです。それくらい蘭丸は信長や信長家臣・敵にも好かれていたんでしょうね。そうじゃなきゃここまでの話が出てきませんからね。ここまで話になったのは生い立ちの影響はありますね。あと、蘭丸は他の兄弟よりも名前が上がっていることから本当に信長のお気に入りであるのは紛れもない事実ではあるのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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