どうも、りかちゅうです!織田家って信長だけが目立っているイメージがありますね。それもそうですね。本能寺の変が起きてからは秀吉が仕切っていましたから。それから秀吉は天下を取りましたね。それもあって、子供たちの影って薄いかと思われます。その中でも信長の嫡男こと信忠はなかなか名前が出にくいです。なぜなら、本能寺の変の時に亡くなったからです。一体何者だったのか?この記事にて話しますね!
index
織田信忠のプロフィール
織田信雄、織田信孝、三法師は名前が出ますね。ただ、信忠はなかなか出てきません。ということでまずは彼のプロフィールから見ていきましょう。

名前 織田信忠
生年月日 1557年
没年 1582年6月21日
備考
信長の嫡男です。彼の面白いところはなぜか正室を迎えていませんでした。理由はとある人を思い続けていたからです。その話は後ほどしますね。
織田信忠の人生
1.生い立ち
1557年に信忠は尾張国で信長の嫡男おして生まれました。生みのお母さんに関しては諸説ありますが一般的に信長の側室こと生駒の方の子ではないかと言われています。ただ、江戸時代初期に完成した歴史書「勢洲軍記」には信忠は生まれてから信長の正室こと帰蝶のの養子となったそうです。ちなみに、幼少時の信忠は「奇妙丸」と変わった幼名で呼ばれていました。理由は生まれたときの容姿が変わっていたことから信長が名付けたそうです。また、魔除け効果を狙った命名だったとも言われています。
信忠は幼少時から家督継承者として特別扱いを受け信長から薫陶といって自己の徳で他人を感化を受けるという形で成長していったそうです。
2.元服
1572年頃に元服した信忠は信長に従って数々の合戦で経験を積みます。まず、織田軍が石山本願寺勢力と争った「石山合戦」、1574年の武田家との「明知城の戦い」に信長とともに参陣しました。さらに、信忠は1574年には再び本願寺勢力が蜂起した「長島一向一揆」を鎮圧するために伊勢国長島で行われた「第三次長島合戦」に陸軍部隊で参戦したそうだす。
3.家督が信忠へ
1576年11月28日に信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られました。そして、その支配を任され岐阜城主となりました。また、信忠は朝廷から同年に正五位下に叙せられ出羽介、次いで秋田城介に任官しました。
さらに、1577年8月には松永久秀討伐の総大将となって十兵衛を先陣に松永久秀が篭城する大和信貴山城を落としました。その功績によって10月15日には朝廷から従三位左近衛権中将になりました。この頃から徐々に信忠は信長に代わって織田軍団の総帥になっていきました。
4.武田家の討伐で実績を
1582年に武田家との最後の戦いとなった「甲州征伐」でも信忠は総大将として約50000人の織田軍勢力を率いて進軍しました。その際は信長は信忠のことを気にかけながらも織田家当主としての力量を試すように武田軍追討を任せたそうです。一方で信長の期待に応えるために信忠は武田軍を崩壊させ、自身の判断で高遠城を攻めた結果、武田家を滅亡させることに成功しました。信長は甲州征伐での織田信忠の戦法を褒め称えました。ですが、順調に天下布武を進めていた織田家にあの事件が勃発します。
5.本能寺の変
甲州征伐を果たした3ヵ月後に織田信忠と信長は秀吉の援軍に向かうため、備中国を目指していました。その途中で休憩として信長は本能寺に織田信忠は「妙覚寺」に滞在することにしました。
その時です。泊まってから次の早朝に十兵衛が本能寺を襲撃し信長は自害してしまいます。この知らせを受けた信忠は妙覚寺から飛び出して「二条新御所」へと移りました。
二条新御所とは正親町天皇の第一皇子である誠仁親王の住居で信長が献上した場所でした。まず信忠は誠仁親王を脱出させると二条新御所で籠城することに。ですが、十兵衛の攻撃に耐えられないことを悟った信忠は自害しますした。享年26歳でした。
その後の織田家
信長と信忠が亡くなってから織田家の後継者問題は、信長の次男の信雄と三男の信孝が互いに後継者の地位を主張し引きませんでした。その時、秀吉が信長の孫である三法師にすべきだと主張しました。それがきっかけで色々あったものの結果として、三法師が織田家の家督を継ぎました。ただ、そこから秀吉が勢力を上げたことで織田家の影は薄くはなりました。だからって、滅亡はしてません。むしろ、秀吉が天下取ってからも豊臣家の家臣となっていました。
信忠の儚い恋
信忠はなぜか26歳になっても正室を迎えてはいませんでした。それはある儚い恋心を抱いていたからだそうです。ですので、その話をしますね!
1.松姫という女
信忠には松姫という心に決めた人がいたそうです。松姫とは信玄の5女です。この2人は本来は信長と信玄が同盟を成立させるために婚約を結んだ関係でした。ただ、その当時、信忠は11歳で松姫は7歳でまだ幼年でした。そのため、しばらくは直接会わないで文通をするなかで親交を深めていきました。ですが、信長が勢力拡大をしていくのと同時にこの同盟は破綻してしまいます。もちろん、2人の婚約関係も解消です。
それなのに、2人は文通だけの関係だとしてもお互いを想い合う仲となっていました。なんなら、どんなに両家が対立しても信忠は松姫のことを想い続けていました。それ故に信忠は正室を迎えることはありませんでした。松姫も松姫もまた数々の縁談を断り、独り身を貫き通していました。思ったのはそれを信長は許してたんですね。後継がのことを考えたら許してもらえない話ですよ?信長って息子には優しいんですかね?
2.松姫を迎え入れようとするものの、
信忠は本能寺の変が起こる直前に、松姫がいる場所に使者を送り京都へ招き入れようとしていました。松姫は生きてたのって?そうです。松姫は武田家が滅亡してから武蔵国多摩郡恩方に逃亡していました。それ故に、信忠は当主となってから改めて婚姻を結び松姫を正室として迎え入れたいと思っていたかと思われます。
ですが、松姫が京都へ向かう最中で本能寺の変が起こり信忠は命を落としてしまいました。お互い会うことなく終わった恋ってことです。それから松姫は武蔵国へ戻り出家して「信松尼」と称し、信忠の菩提を弔ったそうです。
まとめ
やっぱ松姫との話がインパクトありますね。嫡男なのに正室いないってなかなかかと。正室がいなくてもワンチャン側室がいれば子供を作れるからいいのかもしれませんがそれってなかなかない話かと。そう考えると特殊な話だなと思いました。あと、この恋が儚く終わったからこそ実る世界線はなかったのとふと思っってしまいました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。