どうも、りかちゅうです!戦国時代で僧侶から武将になった人がいます。まあ、戦国時代ならそれはおかしくないです。なぜなら、その当時は僧侶が武力を持っていた時代だったからです。そうじゃなきゃ比叡山焼き討ちなど激しいことが起きませんからね?それで、その代表でもあるのが宮部継潤です。彼は元は浅井家の人でしたが秀吉の調略を機に秀吉の家臣になりました。彼は秀吉から認められていました。一体何者なのか?この記事にて話しますね!

宮部継潤のプロフィール

継潤と言われても知らない人が多いと思うので簡単なプロフィールから見ていきましょう!

名前 宮部継潤

生年月日 不明

没年 1599年3月25日

備考

僧侶から武将になった人です。元は比叡山の僧侶でした。

宮部継潤の人生

以上が継潤のプロフィールです。では、彼はどのような人生を歩んだのか?

1.生い立ち

継潤は近江国浅井郡宮部の出身です。通称は善祥坊または中務卿法印とも称しました。ちなみに、継潤のお父さんは土肥刑部少輔真舜で当時荘園管理を現地で任されていた一族でした。1536年に継潤は幼くして比叡山に登って行栄坊に師事し剃髪して善祥坊と名乗りました。比叡山での継潤は荒法師であったそうです。

2.宮部清潤に身を寄せる

それから、継潤は比叡山を下りて近江国浅井郡宮部村の湯次神社社僧兼宮部城主であった宮部清潤の下に身を寄せます。そして、宮部清潤の下で宮部継潤に名を改めています。戦国時代には僧侶や山法師が武力を持つことも珍しくありません。継潤はそこからさらに戦国大名の家臣となりました。

3.浅井長政に仕える

宮部家に入った継潤は、北近江の浅井家の傘下に加わりその重臣となります。継潤は戦略的要衝である宮部城を任されます。ただ、妻子は人質として浅井家の本拠地こと小谷城に置かれました。

4.織田家への寝返りと秀吉

浅井長政が信長を裏切ったことを秀吉が継潤に対して調略を仕掛けてきました。目的は継潤が信長側になって欲しいという要求のためですね。信長は小谷城を力攻めすると損害が大きくなると考えました。そこで、周囲の支城を順に攻略して孤立させてから小谷城を攻撃することに決定します。継潤もその対象者です。

一方で、継潤はこの件に対して条件を提示しまた。内容は秀吉に対し養子を求めました。ただ、当時の秀吉には実子がいません。その時に選ばれたのが甥の秀次です。その当時の秀次はまだ4歳です。これで、継潤は織田方に寝返り秀吉の元で仕えることになりました。また、1572年10月には小谷城に残されたままだった妻子が秀吉によって遣わされた友田左近右衛門の働きにより救出されました。

5.中国征伐に参戦!

浅井家が滅びてから秀吉が任されたのは、中国地方の攻略でした。継潤は秀長に従い山陰地方の攻略に注力していました。その際に山名家などの諸勢力を打ち破り、1580年に継潤は豊岡城の城代になりました。その際に継潤はそこにいる庶民たちに対する諸負担を軽減するなど、庶民の掌握に努めました。また、但馬国内で反乱が起きかけたときも未然に防ぐなど統治能力の高さを見せます。

6.鳥取城を攻める

1581年7月に鳥取城攻めが始まりました。これには継潤も駆り出され但馬の先鋒隊として鳥取城へ向けて進軍しました。継潤は雁金山城を落として鳥取城への連絡網を遮断するという武功を挙げると、以降は城を取り囲み徹底した兵糧攻めをします。ただ、鳥取城には将兵だけでなく近隣の住民も逃げ込んでいました。その結果、兵糧はすぐに枯渇しました。さらに、状況はなかなか酷いものでした。城内の人々は死した牛馬、草木など食べ尽したり遺体にまで手をつけたりするなどかなりの飢えでした。

7.戦後の鳥取城を解決

戦後の鳥取城を任されたのが継潤でした。まず治安の回復活動と戦功を挙げた武士に褒美や所領を与えることからしました。それから、税負担や諸役の整理・減免を進めます。それと同時に、鳥取城の地域の主要産業である漁業権などにも着目し栄えさせました。このように、継潤の地に足ついた実務能力は秀吉から高く評価されました。

8.本能寺の変後の継潤

1582年6月に本能寺の変が起きました。その時に秀吉は毛利軍と対峙していたものの、巧みな交渉から「中国大返し」で京都へ戻りました。にしても、なぜ毛利軍は秀吉の後を追わなかったのか?それは継潤はそのまま残り秀吉の背後を守っていたからです。その後も1587年九州征伐や1590年の小田原征伐に従軍し、1589年には因幡・但馬で5万石を与えられます。

9.家督を嫡男に譲る

継潤は1590年に嫡男の宮部長房に宮部家の家督を譲ります。ただ、この家督相続で継潤が隠居したわけではないです。その後も宮部家の政務をとっています。ただ、1592年の文禄・慶長の役で継潤は渡海を申し出ますが許可は下りず長房が渡海しました。なぜなら、秀吉は明の征服後に天皇や豊臣家・各大名らを配置することを想定した「三国国割構想」を持っていました。その時の朝鮮の留守居役として継潤の名を挙げていたからです。

10.晩年

継潤は1596年高齢を理由として隠居します。隠居後の継潤は秀吉の御伽衆としになりました。秀吉の相談相手という仕事と思えばいいです。また、隠居後も重臣として政務の一部にも関わりました。そして、1599年3月25日に継潤は亡くなりました。前田利家が亡くなる7日前のことです。

まとめ

継潤の嫡男は関ヶ原の時に西軍についたのでそれを機に家はなくなったそうです。ただ、元の領地は南部利直にの物になったことからそれ以降、嫡男は南部藩の元にいたそうです。そのため血筋は残っていったそうです。これは継潤からしたら救いかと思います。逆に嫡男が東軍なら家としてはもっと栄えてたのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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