どうも、りかちゅうです!江戸文化には美人画を描く人なんてたくさんいました。ただ、ある人物は特殊なんです。そのある人物とは喜多川歌麿のことです。今までの美人画は理想の女性を描いていました。一方で、歌麿の描く美人画は江戸にいるリアルな女性たちをモデルとしています。さらに、彼の美人画はそれまでの浮世絵にはなかったリアルな表情やしぐさが描かれていました。そのため、歌麿を超す浮世絵師はいないとも言われてました。何者と思いますね。ですので、この記事にて話しますね!
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喜多川歌麿のプロフィール
この方は教科書にも出てきますよね。それはそうです。歌麿は浮世絵師の中でも右に出る者がいないって言われてるくらいですから。だからこそ、彼のプロフィールを見ましょう!
名前 喜多川歌麿
生年月日 1753年
推測であり確実ではないです。
没年 1806年10月31日
備考
江戸の浮世絵マスターです。「べらぼう」の主人公こと重三郎とデッドを組んだことによって大ヒットしたそうです。ドラマでもこの2人のやり取りが見どころでしょうね?
喜多川歌麿歌麿の人生
以上が彼のプロフィールです。どうやって浮世絵マスターになったのか気になりところですよね?ですので、彼の人生を見ていきましょう!
1.生い立ち
歌麿の本当の姓は北川です。幼名は市太郎でのちに勇助と改めます。となると、歌麿は本名ではないですね。歌麿は著名な絵師なこにその生涯に関する文献や史料は少ないです。そのため、生まれなどの詳細は明らかになっていません。出生地でさえ江戸と言う説が有力であるものの京都、栃木、川越など諸説あります。
2. 鳥山石燕の元で絵の修行をする
歌麿は少年期より狩野派の絵師こと鳥山石燕のもとで絵の修業を始めました。鳥山石燕は妖怪画を多く描いたことで有名です。ちなみに、幼少期の歌麿のことを鳥山石燕が書き残していることから2人は幼い頃から交流があったと言われています。さらに、喜多川歌麿が「鳥山豊章」や「鳥豊章」と言う落款を使った作品もあるため2人が親子だった可能性を指摘する研究者もいます。
3.絵描きデビュー
歌麿の最も古い作品と言われているのが、1770年です。「石要」という名前で描かれた歳旦帳「ちよのはる」の挿絵です。ただ、初めての本格的な絵画は1775年の富本浄瑠璃正本「四十八手 恋所訳」の下巻表紙絵でした。その後、役者似顔絵なども手掛けます。
4.重三郎との初仕事
1781年に歌麿は重三郎の本屋こと蔦屋を版元とする「身貌大通神略縁起」という黄表紙の挿絵を描きます。
この仕事は重三郎との初めての仕事であるのと同時に初めて「歌麿」と号した作品となりました。それこら、歌麿は重三郎の家に身を寄せることになります。同じ家にいる関係って相当密が濃いですね。
5.重三郎とヒット作を作る!
重三郎は歌麿の才能を買い二人三脚で次々とヒット作を世に送り出します。歌麿の作品には遊女が多く登場し女性の繊細なしぐさや表情を捉えた作風が育まれました。それは重三郎のもとで過ごしたからです。それから1783年には重三郎の版元で「青楼仁和嘉女芸者部」と言う遊女を描いた錦絵をリリースしました。
その後、「風流花之香遊」や「四季遊花之色香」などの美人画を発表します。
6.狂歌にも携わる
江戸文化が盛んだった時、武士や町人たちの間で大流行していたのは狂歌でした。狂歌とは社会への風刺や皮肉を込めた短歌です。どれだけ流行ったのか?妓楼や茶屋では狂歌サロンが開かれるほどでした。重三郎はこの流行に注目し、人気狂歌師の大田南畝に接触しました。その際に大田南畝が通ってる狂歌サロンに歌麿を紹介しました。このサロンで歌麿は「筆の綾丸」という狂歌名で活動を始めました。その際に狂歌絵本の挿絵によってその才覚を開花させました。
7.出版規制で苦難する
軌道に乗ってたかと思ったらあることが起きます。それは松平定信の寛政の改革です。この改革で出版統制令という法令が出ました。この統制令はどうやら今でいうエロ本や社会を風刺するような本の出版を禁じるものです。この影響で処罰を受ける者が現れました。大田南畝は幕府の不興を身を引くことになります。それでも、歌麿は諦めません。なんと、「画本虫撰」という狂歌絵本を出しました
どうやら、歌麿はその制約を逆手にとり、虫の品定めをしたそうです。歌麿は虫や草花を繊細な描線と色使いで写実的に表現したため高い評価を得ました。このヒットから重三郎は多くの狂歌絵本を歌麿に依頼しました。その1つに「潮干のつと」が有名です。この絵本は春の袖ヶ浦で開催された狂歌会から誕生した狂歌絵本です。
このように、歌麿は諦めずに色々かきました。ですが、だんだんと歌麿も新しい作品を刊行することがままならなくなります。1791年の時なんて歌麿作品は1点も残っていませんでした。
8.美人画デビュー
規制はあるものの、重三郎と歌麿は美人画に挑戦します。美人画とは女性の内面・外面の美をモチーフにした絵です。特徴としてはそれぞれの画家が独自の画風で女性美を描きます。歌麿はこの美人画の分野でその才能をフル開花させます。まず歌麿作品の代名詞と言える女性のバストアップを描いた「美人大首絵」が誕生しました。この構図で発表された最初の作品が「婦人相学十躰」と「婦女人相十品」という揃物です。
こちらは歌麿の最盛期の傑作のうちです。どちらも背景は描かずに女性の顔の細部や表情、しぐさなどを細かく描写しています。もちろん、どちらも版元は重三郎です。重三郎にとって起死回生を図る作品となりました。
9.更なる規制とチャレンジ
1796年に判じ絵さえも禁止されてしまいます。「婦人手業操鏡」「鮑取り」「女織蚕手業草」など働く女性を題材とした錦絵を発表し何とかしました。
しかし、大首絵その物に禁令が出されます。さすがの喜多川歌麿も追い込まれていくこととなります。そうした状況下で喜多川歌麿が描いたのは日本の伝説を題材としたシリーズでした。「山姥と金太郎」は30種類以上が残されています。
これには工夫があります。まず本来は年を重ねた山姥を若い母親の姿としてその豊満な魅力を感じられるように描きました。一方で金太郎は子供の無邪気さを表す存在として描きました。
10.政策に戒め
歌麿の美人大首絵 は「教訓親の目鑑」で美人大首絵の刊行に踏み切ります。育児教訓として出版することで禁制を逃れます。内容は当時の不良娘の話です。「このようになってはいけない」と戒めることで幕府の質実と倹約の意識にうまく迎合してみせたのです。さらに、役者絵や吉原の1年を描いた絵本「青楼絵本年中行事」の挿絵などを手掛けました。
11.歴史画チャレンジ!
規制のせいでピークの頃の勢いは無くなりました。ですが、
1797年に秀吉生涯を迫力ある挿絵とともに伝奇的に描いた「絵本太閤記」がたちまちベストセラーになりました。この「太閤記」ブームをきっかけに歌麿は1804年に、朝鮮出兵時の加藤清正が宴に興じる様子を描いた作品や柴田勝家が出陣する様子を描いた武者絵を発表しました。上が加藤清正で下が柴田勝家です。
ですが、秀吉による醍醐の花見を題材にした大判三枚続の浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」が強く咎められ手鎖50日の処罰が下されてしまいます。
12.晩年
手鎖50日が終わってからの歌麿は心身共に衰弱しました。年齢は50歳を過ぎているから尚更のそとです。そのため、反骨精神も絵筆も冴えませんでした。さらに、歌麿の先は長くないとささやかれるようにもなりました。ですが、版元達は歌麿と最後の仕事をしたいという気持ちから歌麿に盛んに依頼したそうです。その影響から風刺的なテーマを含んだ「五色染六歌仙」など精力的な作品あります。
それから、1806年に歌麿は54歳で息亡くなりました。
「べらぼう」では染谷翔太が演じる!
これは激アツですね!「麒麟がくる」の染谷信長はもう凄すぎます。話しは逸れますが本能寺の変では染谷信長の演技が良すぎて泣いちゃいました。まあ、そんなことはさておき、染谷信長でヒットさせた人間が歌麿をやるってどんな感じになるんですかね?染谷信長がいるから「べらぼう」が最高になるなんてことはあってもおかしくないかと思われます!あと、「べらぼう」では歌麿はからまるかもしれないって話しはありますがそこは今後の展開で明らかになるでしょうね?
海外での評価
歌麿の国際的評価を決定付けたのは、フランスの作家のエドモン・ド・ゴンクールです。日本美術収集家でもあった彼は「OUTAMARO」という評論を出版しました。その評論では優雅で官能的な遊女を描く繊細な描線や、着物の美しさ、淡い色彩などを絶賛しました。また、今では歌麿の作品の多くは海外の美術館にあります。特にボストンにある「スポルディング・コレクション」という美術館には歌麿の貴重な作品が多くあります。
まとめ
てんこ盛りで書くのが疲れました…。何項目あるんだよレベルですよ。ただ、松平定信のせいで色々苦労しましたね。清すぎるのは人間を苦しめます。改めて倹約って無理やりレベルまで行くと人を追い込めるなと思います。特に文化人はそう思うでしょうね。それなのに、重三郎と共にヒット作品を描く能力があるのはスキルがあるからだと思いました。だからこそ、今後の「べらぼう」がどうなるのかが気になりところです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう