どうも、りかちゅうです!道長は平安時代の権力者ですね。道長の長男こと道隆の息子たちとの権力争いに勝ってから道長の出世様はすごいですね。それは道長が娘を一条天皇と結婚させたからです。とはいえども、その娘さんは乗り気でもなかったです。ちなみに、その娘さんの名前は藤原彰子です。彼女は初めは道長に振り回されていた生き方だったため道長を恨んだこともあるそうです。ですが、その宿命を乗り越え2人の天皇の母として懸命に生きました。すごい方ですね。何者と思うかと。ですので、この記事にて話しますね!

藤原彰子のプロフィール

なかなかな人生ですね。では一体彼女はどんな人なのか?簡単なプロフィールから見ていきましょう!

名前 藤原彰子

生年月日 988年

没年 1074年(享年87歳)

備考

道長の長女です。道長の出世のために強制的に一条天皇の結婚させられた女性です。初めは彰子は道長のことを恨んでいました、それもそうですね。出世のために利用されているわけですし。ですが、それでもその状況から逃げずに2人の天皇を産みました。

藤原彰子の人生

以上は彰子のプロフィールです!幼い頃から道長の出世のために利用されるっていい思いしないですよね。もちろん、彼女も受けれているわけではないです。では、そんな彼女はどんな人生を歩んだのか?

 

1.生い立ち

彰子は988年いに道長と源倫子の長女として生まれます。初っ端から女の子だと後継ぎはと思いますよね?いやいや、女の子が産まれる方がいいんです。実は貴族社会では娘を入内させ生まれた皇子を擁立すると道長にとっていいことが起こります。それは道長は皇子の外祖父として権勢を振るうことができることです。ちなみに、道長のお父さんこと兼家やお兄さんの道隆はこの方法で強い権力を有することができました。これは道長も同じことをしたいですね。

そんな時チャンスがきました。彰子が生まれた頃は道隆の病没とその息子の伊周や隆家の不祥事が重なり道隆ファミリーは一気に没落してしまいます。これをチャンスと見た道長はまだ幼い彰子を強引に一条天皇の中宮につけました。その詳細をこれから話しますね。

 

2.12歳で一条天皇と結婚

道長のねらいは一条天皇と彰子との間に生まれる親王こと次の天皇の祖父となって権力を持つことでした。その目的を叶えるために彰子は成人の儀である裳着を終えた999年に一条天皇と結婚しました。その時彰子は12歳です。一方一条天皇は20歳で彰子との結婚とちょうど同じ頃に定子が敦康親王を出産しています。この時道長は強行的なことしました。なんと道長は1000年に定子を皇后とし彰子を中宮(肩書きの名前をわけることで彰子が一番の后にしたということです)にしました。元の正室がいるのによくやれましたね。

一方で、彰子は道長の言いなりになりっぱなしでした。自分の意志のない結婚なんて乗り気ないでしょうね。

3.一条天皇と彰子はひいな遊びの関係

彰子と一条天皇の歳の差は8歳です。そのため、一条天皇は「彰子の近くにいると自分が翁になったように感じる」と話していたそうです。また、一条天皇は道長の顔を立てるためにしばしば彰子と過ごす時間を設けています。とは言えども、歳の差の影響で結婚当初はまだひいな遊びくらいでした。ひいな遊びとは男女関係をともなわないままごとのような夫婦ということです。

 

4.一条天皇との子供ができる

彰子が一条天皇の子どもを出産したのは、1008年です。彰子21歳になってからのことです。ちなみに、生まれたのは道長が待ち望んだ男の子でした。その子が後一条天皇となる敦成親王です。この妊娠と出産なんですが彰子とお腹の子どもが呪詛されるのを防ぐため周囲には妊娠したことを慎重に伏せていました。ですが、出産のお祝いは盛大すぎるほどに行われました。

もうこれで道長の夢は叶いましたね。なぜなら、次代の天皇の祖父になれるということは出世が保証されているからです。さらに、彰子は翌年にもまたのちに後朱雀天皇となる敦良親王を出産しています。

 

5.後一条天皇が即位してから国母になる

敦成親王が後一条天皇として即位したのは1016年です。29歳になった彰子は9歳の天皇に付き添って玉座である高御座に座りました。そして国の母という意味もある国母として幼い天皇の政務を後見していきます。ちなみに堅実な性格の彰子は公卿たちから信頼される存在でした。

 

6.女院として生きる

彰子が髪を削いで出家したのは1026年の39歳のときです。幼くして即位した後一条天皇も大人となり安心して仏門に入ることができたから出家したのかと思われます。しかし女院となった後に彰子は後一条天皇に先立たれその後を継いだ次男の後朱雀天皇を後見することになります。それで終わりではないです。実は後朱雀天皇にも先立たれてからも活動はしています。なんと次の後冷泉天皇の代になっても相談役として朝廷で存在感を保ちました。

このように、2代の国母でもありかつ天皇の祖母という立場で国を見守り平和を願い続けた彰子は1074年に87歳で亡くなりました。

 

藤原彰子のエピソード

初めは色々あったけどなんだかんだ言って彼女は仕事を全うしましたね。だからこそ、彼女には色々エピソードがあります。ですので、そこらへんも話しますね!

1.大人っぽく真面目な性格

「栄花物語」という平安時代の歴史物語に彰子の容姿が書かれています。どうやら一条天皇のもとに入内した当時の彰子の容姿は髪は身の丈より17cm程度で申し分ない美しさであったそうです。また、12歳という幼い年齢なのに大人っぽくて素晴らしい容姿をしていたそうです。

また彰子は内向的で真面目、恋愛ネタなどを好まない性格でした。ちなみに、彰子に仕えていた紫式部も、彰子のことをはっきりと「ものづつみ(控えめ、内向的)」だと言っています。

 

2.彰子が道長を恨む

体があまり丈夫ではなかった一条天皇は1011年に32歳の若さで亡くなりました。それで、一条天皇は定子が産んだ長男である敦康親王を東宮につけたいと考えていました。もちろん、彰子もその考えに賛成していました。ですが、後ろ盾のない親王が東宮になれば争いの元となるだろうと思われたことから周囲の反対により叶えることができなかったのです。それもあって、敦康親王の処遇を道長は彰子に隠そうとしました。それは隠したくなりますよね。そのために彰子は道長を怨み奉ったと一条天皇や道長の側近だった藤原行成が日記に残しています。

 

3.紫式部と彰子の関係

紫式部は彰子の女房です。とはいえども、紫式部は彰子の関係は特別です。実は紫式部は源氏物語が評価されたことで彰子の女房となりました。評価された理由は教養のある文面ですね。そのため、紫式部は彰子の家庭教師というポジションに選ばれました。これは彰子と紫式部の関係は濃くなりますよね。もちろんです。紫式部の書いたものには彰子の話がたくさん書かれています。紫式部は彰子のことをよく思っていたそうですよ。お互い性格がマッチするからかもですね。また、彰子も知性のある紫式部の元にいたことから知的な女性へと成長したかと思われます。

 

まとめ

家庭環境からして初めは自分の意志で動けなかったのは辛かったでしょうね。キッズであの使命はなかなかだったなと。しかも、結婚したところで定子がいたから本気で愛されてるわけでもないですし。ですが、それから彰子は2人の天皇の母として成長したのはすごい成長だとは思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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