どうも、りかちゅうです!重三郎は「一目千本」といった遊女の紹介本を書きましたね。今でいう風俗嬢の紹介本みたいなものです。ただ、レベルは「一目千本」の方が格別ですけどね。まず江戸時代と今の時代の夜遊びの質がが違うから同じフェーズで戦うのは違いますけどねwwwwww。まあ、そんなことはさておき、重三郎は「一目千本」を作る際に北尾重政という浮世絵師に依頼しました。彼は江戸の浮世絵師界に華を咲かせた人です。一体どんな人か?この記事にて話しますね!
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北尾重政のプロフィール
有名な浮世絵を書いていた人間ですがマイナーではあります。ですので、まずは彼のプロフィールから見ていきましょう!
名前 北尾重政
生年月日 1739年
出身地 東京都日本橋
没年 1820年3月8日
備考
江戸中期の浮世絵師です。北尾派という名の流派の元祖でもあります。また、蔦屋重三郎とコンビを組んで「一目千本」を作り上げました。この話は後ほどしますね。
北尾重政の人生
以上が彼のプロフィールです。マイナーなのに色々作品を作っていたそうですね。それを知るためにも彼が人生を歩んだのかを話しますね!
1.生い立ち
重政は1739年に江戸の小伝馬町にある書肆の家に長男として生まれました。書肆とは書籍を出版したり販売したりするところです。このような家に生まれたため絵本や版画に囲まれる環境で幼少期を過ごしました。また、重政は家業を手伝ううちに絵を独学で覚えていきます。このように、文化的に豊かな環境に育った重政は自然と絵に興味を持つようになります。そして、重政は長男であるものの家督は弟に譲り浮世絵師を目指すことになりした。
2. 鳥居清満の絵を参考にする
浮世絵師になりたいものの、重政は特定の絵師に師事することはありませんでした。まず鳥居清満や西川祐信などの画風を参考にしました。鳥居清満は「紅摺絵(黒の他に紅や緑など2~3色で摺る技法です)」による美人画や役者絵や「黄表紙」の挿絵を描いた人物です。一方で西川祐信は写実的な美人画を描いた絵師です。
3.版本を始める
重政は育った環境の影響もあり作画活動では主に版本と呼ばれる木版で印刷された本を手がけました。版本とは文字や絵を木版に刻み紙に印刷することで作られる本のことです。重政は木版(木材に文字や絵を刻み込むことで版木を作りそれを紙に印刷する技法)の技法を駆使し自身の絵を版本として制作しました。活動初期に描いた作品は紅摺絵の役者絵が多かったとされています。
また、18世紀半ば~19世紀初めは錦絵という技法が確立された時期でもありました。錦絵とは多色で刷られた精巧な木版画のことです。もちろん、重政も多数の錦絵を描き画家としての名声をさらに高めていきました。
4.浮世絵師としての活躍
1772~1781年の頃から重政の作風は変化していきます。詳細としては当時流行していた髪型のひとつである燈篭鬢を描きより現実的な女性像を表現するようになりました。きっと、その時代の息吹を1枚の絵のなかに描きたかったんでしょうね。また、1776年には勝川春章と共作し遊女達の日常を描いた絵本「青楼美人合姿鏡」を制作しました。
従来の浮世絵と比べ女性の頭身や肉付きをよりリアルに描いており、重厚さと温かみをかね備えた北尾重政の新しい画風は、浮世絵界に新風を巻き起こしました。それ以外にも美人画では「東西南北之美人 東方乃美人」といった錦絵の名作を制作しました。
5.大名の依頼に応える
重政は、新発田藩の藩主こと溝口直養の依頼により芸者の肖像画を描いたこともありました。実は溝口直養は参勤交代で江戸に滞在したときに日本橋の芸者を寵愛しました。ですが、藩主という立場もあったため頻繁には会いに行けません。そこで彼女の姿を忘れないために像画だけでも手元に置きたいと考えます。その際に彼は1781年の7月頃に重政に頼みました。
重政はこの肖像画で芸妓のふくよかで柔和な美しさを見事に描写しました。その肖像画に非常に満足した溝口直養はこの芸妓を称賛する長文を別の紙に書き出しこの絵と並べて眺め入っていたと伝わっています。
6.絵本と艶本
絵本や艶本(男女の情交を絵と文章で表した本)を手がけ黄表紙(江戸時代に多く出版された挿絵入りの仮名書き小説で、黄色の表紙で綴じられたことから黄表紙と呼ばれました)に至っては100点以上の作品に描いています。重政の絵本は視覚的な表現力と物語性に優れていたため子どもから大人まで幅広い層に愛されました。さらに、重政は絵の描き方を教えるための絵手本も手がけたとされます。
7.後輩を輩出する
重政は優れた指導力も持ち合わせていたため多くの弟子を育成しました。よく知られているのは北尾政美や北尾政演、窪俊満の3人です。彼らは北尾重政の指導のもと独自の道を歩み個性豊かな作品を世に送り出しました。
※重政は没年は残っているものの最期どう過ごしたのかは知られていません。ただ、後輩を輩出していたのかなと思われます。
重三郎との関係
実は重政と重三郎は関わりがあります。それは2人は「一目千本」という吉原に実在する遊女の評判記のような出版物を手がけたんです!一体どういう経緯でコンビを組んだのか?
1.出会い
2人の出会いに関しての記録は残っていません。ただ、重三郎は重政の才能を見抜いていました。特に重政は洗練された美人画を描けるのはもちろんのこと、江戸文化の「粋」を描ける人間だから重三郎は重政に依頼したのかと思われます。
2.「一目千本」の特徴
一目千本の本当の意味は「千本の桜を一目で見渡せる」です。でも、重三郎が作ったのは遊女の本ではと思いますね。実は「一目千本」なんですが花図鑑のように遊女を障がい児ていたそうです。例えば、気が強い遊女は牡丹と表現し、おしとやかな遊女は桔便と表現していたそうです。
まとめ
私は浮世絵には詳しくないです。江戸時代の文化に関しても「べらぼう」がなかったら調べてないですからね。ただ、重政の絵を見ると明るい色が多いため華が咲く絵だなとは思います。それだから、重三郎は重政に「一目千本」の絵を描いて欲しいとのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。