どうも、りかちゅうです!信長には子供が何人かいました。そのうちの一人が次男の信雄です。本能寺の変で信長も嫡男の信忠も亡くなりました。なら、彼が後継ぎかと思ったら違います。信長が亡くなってから色々あったものの秀吉の家臣という立場になりました。まあ、秀吉の傘下になってからも色々ありましたが。要するに、その後も生きてたってことです。ですので、この記事にてその話をしますね!
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織田信雄のプロフィール
信長は有名でも信雄は本能寺の変後どうなったのと思うかと。ですので、彼のプロフィールから!

名前 織田信雄
「信雄」の読みには「のぶを」と「のぶかつ」の2通りの読み方があります。「御湯殿上日記」では「のふかつ」と書かれている事から「のぶかつ」が一般的な読みと考えられています。
生年月日 1558年
没年 1630年6月10日
備考
信長の次男です。本能寺の変以降、秀吉についたり家康についたりするなど色々ありました。秀吉が目立ってからは大きく目立つことは減っても長く生きていました。
織田信雄の人生
以上が信雄のプロフィールです。では、彼はどんな人生を歩んだのか?
1.生い立ち
信雄は1558年に信長の次男として生まれます。幼名は茶筅でお母さんは織田家家臣の生駒家宗の娘です。信雄には長男の信忠、妹の徳姫、信雄と同年同月に生まれた(腹違いことお母さんは違います)3男の信孝がいました。ただ、信孝の方が先に誕生していたものの、信雄のお母さんが正室的な立場にある事から信孝出生の報告を遅らせ兄弟の順を変えたとも言われています。こういうことから信孝は弟とされた事を恨んでいた、さという俗説もありました。また、史実でも後々に信雄・信孝の兄弟は大きく対立しました。
2.北畠家の養子になる
信長は尾張国の小領主でしかかったものの1567年には美濃国を攻め落とし尾張、美濃国2ヶ国の大名となります。さらに、1568年には足利義昭を奉じて上洛し畿内に影響力を持ちます。その時に1569年8月に信長は伊勢国を攻めます。ですが、伊勢国大河内城を攻城したものの堅城のため手こずりました。一方で攻められた北畠家も耐えたものの膠着し苦しみます。そのため双方和解することになりました。その際に、信雄を北畠家の養子として受けいれるという条件が入りました。それ故に信雄は尾張国から伊勢国大河内城へ移り北畠家の養子にりました。そして、1572年か1573年に信雄は元服しました。
3.初陣
畿内で勢力を強めた信長に対して周囲の大名は危機感を覚えます。そして1570年あたりから浅井、朝倉、三好、六角、延暦寺、そして石山本願寺が信長に反抗します。第一次信長包囲網です。その包囲網で石山本願寺に呼応した北伊勢の寺や門徒も織田家に抵抗します。特に北伊勢の一部地域を支配した新しい領主に小領主たちも反抗したことで「伊勢長島の一向一揆」が起きました。1574年頃まで続きました。この伊勢長島の一向一揆に信雄は出征します。初陣です。
4.北畠家を騙し討ちしてから
信雄は北畠家の養子に入ったものの、伊勢国の支配は北畠家と信雄の二元政治の態勢でした。それを信長は嫌がりなんと北畠家の一族を騙し討ちにします。それから信雄の権力基盤となり伊勢国の安定を図りながら織田家一門として長篠の戦いや越前一向一揆の征伐に従軍しています。
5.無断で伊賀国を攻撃
1579年9月伊勢国を統治していた信雄は隣国の伊賀国に独断で攻め込みますこれを天正伊賀の乱といいます。ですが、伊賀国を自治運営していた伊賀十二人衆と呼ばれる国人衆に抵抗され大敗します。これに対し信長は「親子の縁を切る」と言うくらいに怒りました。ですが、1581年9月に伊賀国人衆内部の切り崩しに成功した信長は信雄を総大将にし信長自身も出陣し再度伊賀国へ侵攻したことで平定されました。その際に伊賀国のうち一部を信雄が領し伊勢伊賀と統治する事になります。
6.本能寺の変
1582年6月2日に本能寺の変で信長と嫡男の信忠は十兵衛よって討たれました。その知らせを聞いた時信雄は鈴鹿峠を越え近江国甲賀郡土山まで軍勢を連れたものの、本領である伊賀国の国人衆が反乱を起こす様子を見せたためそれ以上は進めず安土城を脱出した織田家の子女を救出するのが精一杯でした。
7.清洲会議
その後十兵衛が秀吉に討たれてから清洲会議が開かれました。その際にもちろん後継者の話が出るだけでなく次男の信雄と三男の信孝が激しく争います。まあ、最終的に秀吉が三法師こと後の秀信を当主と定めたことで後継者は三法師になりましたけどね。また、領地の配分で信雄は尾張一国を加えられ尾張、伊賀、伊勢の領地を持つことになりました。
8.秀吉につく
清州会議の後信孝が勝家に近づいた事から信雄は秀吉を頼るようになります。秀吉は信雄を織田家当主として盛り立てる事を約束しました。そして1582年12月に信雄と羽柴秀吉は三法師の奪還を名目に信孝のいる岐阜城を攻めます。勝家は越前にいて雪で助けに行けない事から信孝は三法師を引き渡し降伏しました。そして、1583年には羽柴秀吉と柴田勝家との衝突が激しくなり4月に賤ケ岳の戦いが起こりました。結果は勝家が負けます。
9.秀吉と対立し家康につく
信雄は織田家当主となったものの秀吉に運営を任せました。周りは信雄秀吉の傀儡と見ていました。そんな中、1583年9月に羽秀吉は大坂城を築城し諸大名に号令する根拠地とします。この頃から秀吉は信雄の扱いも軽くし秀吉と信雄の関係は悪化しました。そこで、信雄は家康と同盟を結びます。それから、1584年3月に秀吉と家康小牧・長久手の戦いで戦います。戦いは秋の終わりまで断続的に続きます。秀吉は不利な状況でした。そこで、秀吉は信雄に絞って講和を進めました。その後も秀吉と家康の睨み合いは続いたものの最終的に家康も秀吉傘下に入りました。
10.豊臣政権で出世したのに…
秀吉と和睦した信雄は織田家の当主という立場には収まったものの豊臣政権の下に入る事になります。ただ、秀吉も粗略には扱わなかったようで1587年11月には信雄は内大臣に推されます。これは関白である秀吉に次いで武家の序列2位に位置します。それ以降信雄は内大臣の地位にある間は「尾張内大臣」「尾張内府」と呼ばれました。そして、領地は尾張国を中心に100万石近くありました。
ですが、信雄が没落します。1590年関東の北条家を討伐した秀吉は関東の地を家康に与えました。そして旧徳川家の領地を織田信雄に与えそれまでの尾張国を取り上げる事に決めます。それに対して信雄は頑なに断りました。それに対し秀吉は激怒し織田信雄を追放しました。それから東北や四国に幽閉された信雄は最終的に剃髪し常真という号を使用しながら秀吉の御伽衆となりました。それ以降は秀吉の御伽衆として豊臣政権を過ごします。
11.関ヶ原と大阪の陣
1598年に豊臣秀吉名が亡くなると家康と三成が対立し1600年に関ヶ原の戦いが起こりました。信雄は三成の側に付きまけました。その影響で信雄は隠居領を取り上げられたことでその後は大坂で隠遁生活を送ります。
それで終わりではないです。家康が勝って征夷大将軍になっても信雄が隠遁している大坂には、秀吉の跡継ぎである秀頼がいて淀殿を中心にリベンジしようとしています。もちろん、豊臣家は信雄を自陣営に引き込もうとします。それを知った家康は信雄に領地を与える事を約束し大坂城入城を妨げました。まあ、一応信雄は豊臣方についてから裏切って家康につたそうです。いきなり裏切りみたいな感じかと。
12.最期
1615年に豊臣家は家康に滅ぼされます。その後信雄は大和国宇陀郡と上野国甘楽郡など領地を与えられました。ただ、世を捨て趣味に生きていた信雄は京に住み続け領地には息子や家臣を派遣し管理させました。それから信雄は自適な隠居生活を送り晩年を過ごし1630年4月30日に京都北野邸で亡くなりました。享年73歳でした。
まとめ
信長の子供達って意外と生きてたんですね。秀吉が目立ってからどうしていたのかと思っていた一面はあったので。その中でも信雄に関しては昔は色々あったものの晩年は平和に生きれた事例の1つなのかなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。