どうも、りかちゅうです!「光る君へ」の主人公といえば誰でしょう!紫式部意外誰もいませんね。ただ、ちょっと思うことがあるんです。それは紫式部って源氏物語を書いたことでは有名ではあります。ですが、それ以外何をしたのかとかはあまり知られてないなと。わかっているとしたら歴ヲタくらいでしょうね。この私も紫式部のことを調べるまでよく分かってなかったですし。ですので、この記事にて話しますね!

紫式部のプロフィール

 

名前 紫式部

生年月日 970年から980年の間

没年 1014年から1031年の間

備考

源氏物語の作者です。源氏物語の原文が主語が少ない文章なため激ムズです。また、源氏物語だけでなく百人一首にも歌が選ばれています。

 

紫式部は本名ではない?

「紫式部」とは本名ではないです。実は当時の人々がつけた呼び名だそうです。

紫式部と呼ばれる前の呼び方は藤式部でした。これは紫式部のお父さんの藤原為時の官職であった「式部大丞」と「藤原」から来ているそうです。それから、そして彼女が紫式部と呼ばれるようになったのは「源氏物語」からです。「源氏物語」に登場する「紫の上」に由来しているとされています。ちなみに、紫式部の本名は不明です(藤原 香子という説もあります)。

紫式部の人生

以上が紫式部のプロフィールです。有名なのに本名が知られてないとか謎が多いですね。だからこそ、彼女の生き方とか気になるのかなと。ですので、今から話しますね。

 

1.生い立ち

紫式部の生年月日は正確には分かりませんが970年頃に生まれたのではないかと言われています。家族はお母さんとお姉さんは幼い頃に他界したので藤原惟規(彼は和歌の名手です)という弟とお父さんの為時の3人で暮らしていました。

ちなみに、紫式部の生い立ちは裕福ではありませんでした。なぜなら、為時は学者としては優秀でした(漢詩が得意だったそうです)が世渡りが下手だったため長年官職を得ることができませんでした。そんな時、984年に花山天皇が即位したとき為時はようやく式部丞に任命されました。ですが、そのわずか2年後花山天皇が藤原兼家、道兼親子に騙されて出家に追い込まれたことで為時は再び職を失います。このように、為時が仕事運がなかったことから紫式部の影は薄かったです。

2.越前にお引越し

996年紫為時は道長に漢文の才能を買われてようやく官職を得ることができました。越前守です。理由はその当時日宋貿易のシーズンでした。そのため、漢詩ができる人が欲しかったからです。その際に紫式部は一緒に越前へついていったそうです。でも、紫式部は越前ではそれほど楽しんでなかったそうです。

3.イケオジ宣孝との結婚

紫式部は20代半ばなのに未婚でした。平安時代では晩婚です。あの時代ならば10代で結婚とかあるあるでしたからね。そんな中、イケオジ藤原宣孝とのご縁がありました。その彼なんですが紫式部よりも20歳年上です。また、宣孝は既に何人もの妻を持ち紫式部と同世代の子どもまでいました。それだけではないです。同時期に近江の守の娘にもアプローチしていたという好色者でした。イケオジだからモテたんでしょうね。ただ、女性からしたら結婚にはちょっととなるのかなと。それなのに、なぜ紫式部は宣孝を選んだのか?年上で包容力があるのはもちろんのこと宣孝の熱意に負けたのかと思われます。

4.宣孝との別れを源氏物語の執筆

結婚生活は2年で終わりました。理由は宣孝は1001年の春に疫病で亡くなってしまったからです。しかも、その時紫式部は子持ちでしたこれは大変な状況ですね。そこで、この年の秋絶望感を埋めるように書き始めたのが「源氏物語」でした。初めは「帚木」「空蝉」「夕顔」の3巻を書いたと言われています。たった3巻でも近所の女性たちに人気でした。それから、その評判はやがて宮中へと広がります。その影響で文道長が目をつけたことから紫式部は道長の娘こと彰子付きの女房としてスカウトされました。

※源氏物語の詳細はこちらに書かれています!

 

5.彰子の女房となる

紫式部が宮中へ上がったのは1007年ころです。紫式部は彰子に仕え和歌や漢文などを教えました。道長は紫式部の知性を認めたからそのポジションにつけたんでしょうね。また、この頃一条天皇が源氏物語を読む機会があったため紫式部のことを「日本書紀の知識がある」と褒めました。それから紫式部は1011年頃まで彰子に仕えこの間に「源氏物語」を完成させました。『源氏物語』は宮中の女性たちの間で大人気に。藤式部から紫式部と呼ばれるようになったといわれています。

 

6.晩年

晩年は謎です。理由は紫式部が彰子の女房を辞めてからの資料がそうないからです。
ただ、晩年は出家して宇治に住んだとする説もあります。となると、源氏物語の宇治十帖は出家後に書かれたのではないかとと思われます。

紫式部のエピソード

以上が紫式部の人生です。源氏物語を書いたことで出世しましたね。そんな紫式部だからこそエピソードが豊富です。ですので、今から話しますね!

 

1.内気でネガティブな紫式部

紫式部はたいへん内気内向的でネガティブ思考の女性でした。なんか月を見ながら「昔は良かった」「世間の非難が」などとネガティブ思考な物思いに陥ってしまうような傾向があったようです。といったような現状を楽しめない根暗さが窺えますね。

また、紫式部は宮中で仕えるようになって男性にも顔を見せて働くようになりました。その際に彼女は自分がその環境に慣れていくのを「厚かましい」「恥ずかしいことだ」「あってはならないことだ」と殻に閉じこもってしまっていたそうです。そこまで悲観的になるなと思います。

2.優秀な女性

紫式部は幼い頃に弟が漢籍を習っていたのを近くで聞いていたところ
簡単に漢籍を習得してしまいました。弟はすぐ忘れてしまうのに、紫式部は才気があり不思議と覚えるのが早かったようです。そのため、為時はこのように言っていました。

口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ。
残念。(紫式部が)男子だったらよかったのに。

男性だったら出世は早かったかもしれないですからね。ただ、紫式部は女性でも出世したから結果オーライでしょうね!

3.清少納言との仲は?

紫式部と清少納言は犬猿の仲と言われていますね。これに関しては本当です。なんかお互い文面で悪口を書いていたそうです。お互い性格が真逆だから悪口を言い合っていたのなかと思われます。ただ、2人は宮中で会ったことはないです。だってお互い任期の時期が違いますから!ただ、お互い評判のある人だから色々知っている仲ではあったのかと思われます。

 

道長との関係

「光る君へ」では紫式部と道長の関係が謎ですね。実は愛人という説があります。宣孝は疫病で亡くなってから紫式部は彰子の女房という名の家庭教師として宮仕えを始めます。その後、紫式部は藤原道長の愛人になったのではないかという説があるのです。実際に、室町時代初期に成立した「尊卑分脈」という系図集では紫式部は「藤原道長の妾」と記されています。また、道長の正室こと倫子は紫式部と道長の関係に嫉妬していたそうです。

まとめ

紫式部って有名なのに謎な点が多いですね。まず生年月日も没年も曖昧なのは驚きでした。元は裕福な家庭でないならではの何かですかね?もしいい家の人だったら残る可能性は高いですし。あと、たとえ有名になったとしても彰子の女房を辞めてからのことはちゃんと分かってないですからね?このように、有名でも謎ありきです。そう考えると、紫式部ってミステリアスな一面を持つ歴史上人物なのかなとは思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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