どうも、りかちゅうです!教科書でほんの一瞬だけ名前が出る人がいます。それは石田三成です。「徳川家康は関ヶ原の戦いで石田三成に勝ち」みたいな文面の時だけ出てきます。教科書では三成の名前はその時しか出ませんけどね。負けた側ってそんなもんですよね(私はこいつは何者なのだと思っていましたが)。ただ、その三成は見がいのある人材ではあります。私は「天地人」を見た時にそう思いました。ですので、この記事にて三成について話しますね!

石田三成のプロフィール

名前 石田三成

生年月日 1560年

没年 1600年11月6日

備考

秀吉の家臣の1人です。秀吉が長浜城主になってからの家臣です。性格が真っ直ぐすぎて人間関係では色々あった人ではありました。ただ、悪い奴じゃないです。

石田三成の人生

以上が三成のプロフィールです。では、彼はどのような人生を歩んだのか?

1.生い立ち

三成は1560年近江国坂田郡石田村の士豪の一員であった石田藤三衛門正継の次男として生まれました。お母さんは浅井家の家臣の娘「瑞岳院」です。石田家は浅井家に仕えて石田村を治める豪族でした。ただ、三成は石田家で育っていません。三成は幼い頃から聡明な子と評判だったことから隣町の大原観音寺に預けられて学問修行の日々を送っていました。

2.秀吉にスカウト

長浜城主となった秀吉は領地内で鷹狩りをしていました。秀吉は、その帰りにのどが渇いたため、寺に立ち寄りお茶を出すように求めます。そのときに対応したのが三成です。三成は秀吉に初めの1杯を「ぬるめのお茶を大きめの茶碗」に入れました。秀吉がそのお茶を飲み干すと次に三成は「少し熱めのお茶をやや小さめの茶碗」に入れます。秀吉はもう一度飲み干すと三成は最後に「熱いお茶を小さい茶碗」に入れて持ってきました。これがあの三献の茶です。

秀吉はニーズに合わせて温度の違うお茶を3つの茶碗に分けた三成を評価しました。これをきっかけに三成は秀吉の家臣になりました。この話は諸説はあるものの三成は利発で機転がきく少年だったそうです。

3.三成は何してたの?

三成は武士として戦で暴れ回るというポジションではないです。寺の子でそんなキャラだったら面白いですねwwwww。むしろ、外交を担当する事務方として奉公しました。特に三成は物資の輸送や戦後処理を担っていました。この話は三成が20歳頃のに書いたと推定されている書状「石田三成発給文書目録稿」に残されています。ちなみに、三成の事務はピカイチでした。

4.賤ヶ岳の戦いの功績

1583年の賤ヶ岳の戦いで三成は敵方の情報を集めて戦略作りに貢献しました。その際に、勝利の決め手となった「美濃大返し」を陰で支えました。詳細としては美濃国大垣から近江国木之本までの13里(約52㎞)の道程を約5時間で移動させた大がかりな軍団移動を成功させました。当時としてはかなりの速度です。なぜできたか?それは三成が街道の要所に乗り換え用の馬や食事を手配したからです。このように、裏方だけではなく、戦場では槍で敵に立ち向かい活躍したそうです。この功績で三成は近江国にある水口城の城主になりました。

5.治部少輔と五奉行

1585年に秀吉が日本初の武家関白へと出世すると三成は従五位下・治部少輔という高い官位となり出世を果たします。さらに、三成はなんと25歳の若さで官僚になり「五奉行」の1人になりました。その時の三成は司法や行政を担当しました。

6.太閤検地

秀吉が1590年に天下統一をしました。その時、三成は秀吉による財政改革こと「太閤検地」の実行役として全国各地を転々とします。太閤検地と田畑の広さと収穫量を調べ地域ごとに石高という単位で土地の生産性を計測し、年貢を正確に納めさせる政策です。ただ、三成は1584年から美濃や奥羽、越後、薩摩など全国各地の石高の測量を行っていました。そこで、三成はこの経験で得た知恵で検地の専門家となり検地奉行の相談役を務めました。

※この時期くらいから三成は佐和山城に居城するようになります。

7.朝鮮出兵での対立

天下統一が終わった秀吉は明国の征服を目指します。ただ、明国に向かうためには朝鮮半島を経由しなければ行けなかったです。その時に起きたのが朝鮮出兵こと文禄の役と慶長の役です。この時三成は朝鮮出兵を取り仕切る「朝鮮総奉行」に任命されます。

仕事は上手くいきませんでした。実は三成は現場で戦ってる武将と対立します。詳しく話すと長くなるので割愛しますが勘違い、すれ違い、現場と事務とのギャップのせいで三成は嫌われていきます。特に加藤清正と小早川はこの件で色々ありましたね。

※三成は融通が利かないため一定数の武将には嫌われていました。加藤清正、福島正則などの武断派はまさにそうですね。それで、この朝鮮出兵がきっかけでアンチ三成のヘイトはかなり増したのかと思われます。日々の蓄積が爆発した感じだと思えばいいです。

8.秀吉の死と失脚

1598年に秀吉が亡くなってから家康の存在感が大きくなりました。秀吉の嫡男こと秀頼はまだ若かったから仕切れないですからね。その姿に三成はよく思っていません。ですが、三成はあることで不利になりました。ある時清正など武断派から襲撃を受けて三成は逃亡します。その争いの仲裁を買って出たのが家康でした。そのトラブルをきっかけに家康は三成に五奉行を辞職し佐和山城へ引退することを勧告します。なすすべのない三成は仕方なくそれを受諾します。

 

9.関ヶ原の戦い

失脚した三成は佐和山城にこもっていました。ですが、家康が天下取りに動き出したことを知黙って見ている訳にはいきませんでした。そこで、三成は大人しく隠居生活を送っているように装いながら、家康討伐に向けて着々と準備を進めていきます。その時に三成の親友こと大谷吉継が三成を助けてくれました。

そして、1600年に関ヶ原の戦いが勃発しました。初めは西軍優勢で始まりました。ですが、元は西軍だった小早川が裏切ったことがきっかけで他の西軍が東軍へ寝返る武将が出て来ます。この影響で三成は負けました。

10.最期

三成は負けても自決せず再起を図ろうとしていました。ですが、力が絶えてしまいました。そんな時農民である「与次郎太夫」が助けてくれて身を潜めていました。与次郎太夫にとって三成は旧領主でかつて飢饉が起きた時に三成が村人を救ってくれました。それ故に彼は三成は命の恩人だと思い助けました。ですが、そのことが名主にバレてしまい田中吉政に差し出すように言われます。三成は匿ってくれた与次郎太夫の好意に感謝してから自ら捕縛を申し出ました。

その後三成は敗軍の将として六条河原で斬首されてしまいます。享年41歳です。

 

石田三成の逸話

三成には逸話がたくさんあります。ですので、ほんの一部だけ話しますね!

1.大谷吉継との絆

三成には大谷吉継という盟友がいました。そんな2人の絆ができたのはお茶でした。ある時、大谷吉継は豊臣家の茶会に参加しました。参加者は順番にお茶を飲んでいて大谷吉継に茶碗がまわってきました。その時にハプニングが起きました。

実はその当時大谷吉継はハンセン病を患っていてその膿が茶碗に入ってしまったのです。それを見た他の参加者達が気味悪がって大谷吉継から茶碗を受け取ろうとしませんでした。ですが、三成が「喉が渇いた」と言ってその茶碗を受け取りました。そして、平然とお茶を飲み干しもう1杯欲しいと申し出たのです。これを見た大谷吉継は三成にはついていくと決心したとされています。

2.農民に直訴を許した三成

三成は、30代になると近江国坂田郡にあった佐和山城主となり19万石の地を治めました。この佐和山は、畿内と東国を結ぶ要衝であり軍事、政治、経済的に重要な地域でした。そのため、近江では「石田三成の身に余る物は2つある。島左近と佐和山城」と謳われています。要するに、佐和山の支配や猛将の家臣の島左近は三成にはもったいないという意見もありました。ですが、三成による佐和山の統治は領民思いの「善政」とされており三成は領民から慕われていました。理由は三成は農民に直訴を許可していたからです。何かあったら自分に言えと三成自身が規定を作りました。

 

3.三成=干し柿の元ネタ

三成といえば干し柿ってネタは歴ヲタでは有名です。その元ネタは三成の最期です。処刑前の三成は「喉が渇いたので水が欲しい」と見張りの者に要求しました。見張りの者が「水はないから干し柿を食え」と答えました。三成は「柿は痰の毒になる」と言って干し柿を拒否しました。「これから死ぬ者が毒を気にしてどうする」と見張りの者は笑いました。まあそうなりますよね?それに対して三成は「大志を持つ者は最後まで命を惜しむ」と言いました。たとえ処刑という最期でも信念を貫きたいのが伺えますね。

 

まとめ

三成のネタはまだまだあります。掘れば掘るほどたくさん出てきます。これでも端折っている方です。学校の教科書ではほんの1回しか出てこない人材なのにこんなにデータがあるのはなかなかな人かと。強いていうなら誕生日がいまだに不明ですね。とにかく、彼は予想よりもネタ多い人間だと思ってくれると嬉しいです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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