どうも、りかちゅうです!重三郎は絵師だけではなく作家にも重きを置いていました。その代表例が山東京伝です。江戸の文化史が好きな人ならば馴染みのある名前ですね。「べらぼう」では初めは鶴屋のところにいます。ですが、そんな彼は生まれた時の環境が重三郎と似たような感じだったため馬が合い共に仕事をするようになりました。また、彼は浮世絵師もやるなどマルチな人です。だからこそ、この記事にて彼の話をしますね。
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山東京伝のプロフィール
作家でもあり浮世絵師でもある京伝。どっちだよとも言えるくらいどちらも作品があるとか。何者と思いますね。では、そんな彼のプロフィールはどんな感じか?今から話しますね!
名前 山東京伝
本名は「岩瀬醒」です。浮世絵師の時は「北尾政演」で活動してました。
生年月日 1761年9月13日
没年 1816年10月27日
備考
江戸時代の売れっ子作家です。とは言っても浮世絵の方が先にやってましたが。彼は重三郎のお店の看板作家だったそうです。ただ、彼の影響で重三郎も処罰に遭うことになります。
山東京伝の人生
以上が彼のプロフィールです。重三郎の周りは優秀な人がたくさんいますね。まあ、そんなことはさておき、京伝は一体どんな人生なのか?
1.生い立ち
京伝は1761年に質屋の養子だった岩瀬伝左衛門の長子として東京の深川木場で生まれました。幼名は甚太郎、のちに伝蔵です。京伝は13歳まで暮らした深川の影響を大きく受けたそうです。なんと、その当時、「深川七場所」と呼ばれるエリアがありそこには岡場所が大いに賑わっていました。岡場所とは幕府非公認の遊郭のことです。遊郭は吉原だけじゃないんですね!とは言っても、ずっと深川木場にいたわけではないです。1773年に伝左衛門が質屋を離れて町屋敷の名主になると京橋銀座一丁目に移転します。
2.北尾重政の弟子になる!
京伝早くから絵師になりたいと考えてました。そこで1775年(14、15歳)ごろに人気浮世絵師北尾重政の所に入門しました。そこでは北尾派特有の略式画(簡易な描線で描くスケッチ風の表現技法)などを学びました。そして、自身の作風確立に励みました。
京伝は人並みでない才能りました。そのため、北尾政美や窪俊満と並んで北尾重政門下の三英才と称さていました。ちなみに、その頃に京伝は画号として北尾政演を名乗りはじめました。
3.絵も執筆もデビューする!
デビュー作は諸説ありますが1778年の黄表紙「お花半七開帳利益札遊合」とする説が有力です。京伝は挿絵を描き評価を高めました。
それから、黄表紙を中心に執筆活動に入ると、1782年に文章と挿絵双方を手がけた黄表紙「手前勝手御存知商売物」を作りました。そしたら、狂歌師の大田南畝おおたなんぽが絶賛しました。それ以降京伝は人気作家の仲間入りを果たしたのです。ちなみに、京伝の号を使用したそうです。「京橋」の「京」と「伝蔵」の「伝」を組み合わせたそうです。また、「山東」は京橋が江戸城紅葉山の東にあるから山東にしたそうです。
4.重三郎との出会い
重三郎と京伝は話があったそうです。それはそうですね。岡場所に物心つくころから馴染んでいた京伝は吉原にもよく出入りしていていたそうです。それもあって、重三郎との交流も吉原の酒席でした。また、京伝のお父さんが吉原で働いていたため京伝は吉原のことはわかっていました。
このように、重三郎と気が合ったため京伝は他の版元からも期待される作家だったのに重三郎に誘われたから重三郎のメンバーに加わることになります。その代表作が1784年正月に出した「吉原傾城新美人合自筆鏡」です。
文面も挿絵も京伝が手掛けたこの作品は大きな話題を集めました。その後もたくさんの作品を発表していきます。
5.規制と処罰
田沼意次が失脚し松平定信が老中に就任してから寛政の改革が始まりました。それ故に色々大変なことが起きました。まず、1790年に「みだらなことや異説が書かれた本は厳重に取り締まる。好色本は絶版」という規制が発生しました。そしてついに、遊女と客の駆け引きを描いた「娼妓絹籭」を含む洒落本三部作が出版統制に触れてしまいます。そのため、京伝と重三郎は1791年に奉行所の判決が下されました。京伝は両手首に鎖をはめられる手鎖50日の刑です。一方で重三郎は多額の罰金刑を受けました。
6.手鎖の刑の後の作品
処罰の影響で京伝は文化人を辞めようとしました。ですが、重三郎の励ましによって復活しました。その復活作が「箱入娘面屋人魚」でした。
この作品の内容は浦島太郎が乙姫という妻がいながら鯉と浮気をしちゃいます。それが原因で生まれた人魚を主人公にした荒唐無稽な物語です。結末は人魚は遊女に売られるものの、生臭いと1日でお払い箱になったそうです。このように、元からあって昔話をユーモア豊かに描いています。
7.「京屋」の開業
京伝は1793年に京橋銀座に煙草入れの店「京屋」を開業します。遊郭での振る舞いも粋だった京伝は商才もあり店は繁盛しました。どうやら、京伝がデザインした商品は「京伝好み」として人気を集めたようです。ですが、同じ年に妻のお菊が亡くなってしまいました。吉原の遊女だったお菊とは当初両親から反対されたそうです。ですが、それを乗り越えて結ばれた夫婦だったからこそ、すごく悲しんだだそうです。
8.再婚と晩年
お菊が亡くなったことで初めて絵入りではない読本を書きました。作品名は「忠臣水滸伝」で前後二編を刊行しました。それから、1800年には23歳年下の玉の井と再婚しました。彼女さ花魁だったので億単位の身請け金を支払ったのかと思われます。歳の差はあっても仲睦まじく生活していたそうです。再婚してから京伝は1815年には考証随筆「骨董集」を刊行しました。このように、晩年も上手くやっていたものの、1816年に56歳で亡くなりました。京伝は黄表紙217(挿絵のみは48)、洒落本29、読本26、合巻86もの作品を作ったそうです。
山東京伝の得意分野
京伝がもっとも得意だったのは遊里に特化した洒落本です。1785年に刊行した「息子部屋」を機に洒落本へ進出すると遊女の生活や心理へにたして深い洞察を作品に描いたそうです。また、遊女の会話に滲む温かみや繊細な美意識も描いたそうです。
さらに、1786年に発表した洒落本第2作「客衆肝照子」では浮世絵師・北尾政演としての技量も発揮しました。より写実的な描写によって作品の完成度を高めまたそうです。京伝は岡場所の近くで生まれ育ったからこそ遊女の生活や心理などを描くのが上手いんでしょうね。
浮世絵師としての山東京伝
京伝はもともと北尾派の浮世絵師・北尾政演として世に出た人物です。浮世絵を手がけた期間は10年ほどです。もっとも代表的な作品は先ほども話した1784年に出版した画集「吉原傾城新美人合自筆鏡」です。複雑で細かな構図や華麗な色使いによって女性の性格や個性を巧みに表現しました。また、京伝の浮世絵は駆け出しの時期はやや地味な作品が多かったです。ですが、画業を積むにつれて華やかな作風に変化しました。
山東京伝の逸話
実は原点は京伝からってものはあります。ですので、その逸話を話しますね。
1.原稿料の原点!
京伝が世に出るまでは作家には原稿料ではなく謝礼品が渡されるのがデフォルトでした。具体的には物品か宴席が設けられていたのです。なんか創作活動は趣味や遊びの領域でありお金を受け取ることは無粋だと考えられていたからそんな感じだったそうです。
ですが、京伝があまりにヒット作を連発したため版元による作家の囲い込みがはじまります。その際に誕生したのが潤筆料こと原稿料です。京伝の洒落本三部作が刊行された際ときに重三郎がけ支払ったのが原稿料の起源とされています。
2.割り勘の元は山東京伝?
京伝は仲間内での金銭のやり取りを極端に嫌う人物でした。当時は店で飲食をするときは誰かひとりがまとめて支払うのがデフォルトでした。ですが、京伝は人気作家となったとしても割り勘を貫いてました。その勘定方法は「京伝勘定」と呼ばれていました。京伝の弟子だった曲亭馬琴は京伝はケチなのではなくあくまで金銭によるもつれを避けることや淡々とした付き合いを好んでいたことが理由だと言っています。
そういう性格なのか京伝は普段は質素な生活だったそうです。どうやら、執筆に使う机は寺小屋に通い始めた時に親に買ってもらったもののままだったそうですよ?
まとめ
作品よりも割り勘のネタの方に驚いちゃいました。割り勘の元が京伝だったとは予想外というのか。それだけお金にシビアだったんでしょうね。あと、どんなに売れてても寺子屋時代からの机を使ってるって稀ですよね。それだけ物を大事にしたかったんでしょうね。このような姿を見ても京伝は売れたとしてもお金に溺れる人ではないことが分かるなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう