どうも、りかちゅうです!タイトルを見たら分かると思いますが2014年の大河ドラマが懐かしいですね。とか言いながら私は見てないんですけどね←。理由は清盛大河のせいで大河ドラマに萎えていただけですが。まあ、そんなことはさておき、私は軍師官兵衛を見たことないものの、いざ官兵衛のことを調べたら話がいのある人でした。ですので。この記事にて官兵衛について話しますね!
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黒田官兵衛のプロフィール
大河ドラマ見てた人は官兵衛のことは分かってると思います。ただ、おさらいとして官兵衛のプロフィールを見ていきたいと思います!

名前 黒田官兵衛
本名は黒田孝高です。官兵衛は官兵衛尉という役職を持ってたから官兵衛と呼ばれていました。
生年月日 1546年12月22日
没年 1604年4月19日
備考
2014年の大河ドラマこと「軍師官兵衛」の主人公でした。
黒田官兵衛の人生
以上が官兵衛のプロフィールです。「軍師官兵衛」が懐かしいですね。まあ、その振り返りとして彼の人生を見ていきましょう!
1.生い立ち
は官兵衛は1546年に播磨国で生まれました。お父さんは播磨城主の小寺政職の重臣「黒田職隆です。お母さんは小寺政職の養女こと岩姫です。官兵衛は1567年の22歳のときに家督を継ぎ、志方城主の櫛橋伊定の娘こと光姫を正室としました。そして、1568年に嫡男の黒田長政がうまれました。ちなみに、官兵衛は正室のみで愛妻家と呼ばれました。
2.秀吉の配下になる
1570年代の官兵衛は大変でした。播磨国は地理的に信長と毛利輝元に挟まれていました。官兵衛は小寺政職に「守りの毛利よりも、攻めの織田に付きましょう」と信長に味方するように進言します。そして、1573年に官兵衛は小寺家の使者として岐阜城を訪問し、信長から褒美として、名刀「へし切り長谷部」を拝領したと言われています。その後、官兵衛は秀吉の配下になりました。
3.中国征伐でのピンチ
1577年の中国征伐では官兵衛が先鋒を務めます。官兵衛は、播磨国内の武将達に織田軍の味方に付くように次々と説得します。また、1578年に官兵衛は信長に対してクーデターの気配がある荒木村重を説得するために有岡城に向かいます。ですが、官兵衛は逆に捕らえられ有岡城の牢屋に幽閉されました。この状況から信長は官兵衛が寝返ったと勘違いして大激怒しました。そして、信長は官兵衛の息子の黒田長政を殺すように秀吉に命じます。
しかし、1年後の1579年10月有岡城が陥落し官兵衛は奇跡的に救出されました。秀吉は官兵衛が寝返っていなかったことを知り長政を処刑したことを泣いて詫びたと伝えられています。ですが、実際は半兵衛が長政を殺さず匿っていたと判明するのです。半兵衛は官兵衛が裏切っていないと分かっていたから長政を守っていたそうです。この件を聞いた信長、秀吉、官兵衛は半兵衛に心から感謝したそうです。
4.本能寺の変までの活躍
それ以降も官兵衛は活躍しています。まずは1578年5月から1580年2月にかけて行なわれた三木合戦では官兵衛は半兵衛と共に、三木城に籠城した別所長治に武力で対抗するのは難しいと判断し食糧補給手段を絶たせる兵糧攻めという方法を秀吉に提案し攻略したと伝えられています。その後、1580年に播磨平定の功績で官兵衛は信長から山崎1万石を与えられました。
それ以外にも1581年に毛利軍との戦いでも鳥取の渇殺しという兵糧攻めを行ない鳥取城を攻略しました。さらに、1582年に備中高松城攻略の際には地形を見て水攻めが適切であることを秀吉に提案するなど知将ぶりを発揮しました。
5.本能寺の変と洗礼
1582年に本能寺の変で信長が亡くなると官兵衛は秀吉に「天下が取れる、好機です」と発言し、官兵衛は秀吉に「中国大返し」を促しました。さらに、官兵衛は豊臣軍の殿を担当し、「山崎の戦い」で明智軍を討伐しました。その後1583年に官兵衛は秀吉が天下統一のために作った城こと大坂城の設計を担当します。この築城にて官兵衛は豊臣政権下で普請奉行と言って今で言う国土交通大臣とみたいなポジションになりました。
また、同年に官兵衛はキリスト教の洗礼を受けて洗礼名「ドン・シメオン」を名乗りました。
6.四国平定での活躍
1585年秀吉が四国平定を進めた時にも官兵衛は知将ぶりを発揮。長宗我部元親は、讃岐の植田城に敵を誘導し阿波国に本陣を置いて夜戦で挟撃しようと策略していました。ですが、官兵衛が長宗我部元親の作戦を見抜き阿波国への攻撃を最優先にするよう進言した。その結果、長宗我部元親が立てこもっていた白地城は豊臣軍に取り囲まれてしまいます。迎え討とうとした長宗我部元親ですが家臣に説得され講和を受け入れることにしました。長宗我部元親は官兵衛の智略に負けたことをたいへん悔しがったそうです。
7.九州平定と復興活動
官兵衛は1586年に開始した九州平定で作戦指揮を担当し豊前国の諸城を次々と攻略しました。はじめに官兵衛は4000の軍勢を率いる先鋒として、毛利・吉川・小早川軍と共に、豊前小倉城を攻略しました。その後、豊前松山城では豊前の諸将が降伏します。それ以降も順調だったことから官兵衛は1年足らずで豊前内の主要な城をすべて攻略しました。その後、1587年に島津家が降伏して九州平定は完了しました。ですが、博多の町を訪れた秀吉は度重なる合戦で荒廃を見て驚きました。そこで、秀吉は官兵衛たちに荒廃した町の復興を命令しました。
8.九州での統治
官兵衛は秀吉に九州平定の功績を讃えられ、豊前6郡12万石と馬ヶ岳城を授かります。官兵衛は秀吉の命で領内の検地を行ない豊前の統治を徹底しました。一方で秀吉は九州内の領地配分を再編しました。その再編で城井谷城の城主こと城井鎮房は秀吉の九州平定に協力したのに移封しましま。城井家は先祖から400年近くこの城井谷を治めてきたため城井鎮房この措置に不満を持ち蜂起します。官兵衛は長政とこの鎮圧しました。そして、1588年に城井鎮房は降伏し官兵衛と長政に謀殺されました。
それから、官兵衛は馬ヶ岳城が山城で城下町がうまく作りにくいため城を平地に移すことを考えました。その際に官兵衛は中津城を築城し、拠点を中津に移します。中津は広い平野で九州でも有数の米どころです。そのため、商工業・運送運輸業を押さえるための絶好の地域でした。さらに、中津の興隆を図るため、姫路・京都・博多から商人を招き入れました。
9.家督を譲ってからの活動
官兵衛は1588年に讃岐国の高松城1589年に安芸国の広島城の設計を担当しました。その後、官兵衛は1589年に家督を長政に譲り出家して「如水」の号を名乗りました。ただ、家督をゆずっても官兵衛の知将ぶりは衰えていません。1590年の小田原攻めが起きた時、交渉人として北条家を説得して無血開城させました。
また、1592年の朝鮮出兵では築城総奉行となり秀吉による朝鮮出兵の拠点となる名護屋城の設計をしました。さらに、官兵衛は朝鮮の八山という良工を日本に連れ帰りました。この八山は豪快な作風の陶磁器「髙取焼」の祖となりました。
10.関ヶ原では東軍として活躍
秀吉が死去してから黒田家は家康に従います。もちろん、1600年の関ヶ原は東軍です。その際に官兵衛は貯金を全額はたき浪人9000人を集めます。官兵衛は浪人をうまく統率し、九州内で西軍側に付いた大名を次々と撃破しました。まず九州版の関ヶ原の戦いとも呼ばれる「石垣原の戦いでは大友軍を撃破します。さらに、官兵衛は九州一と称された西軍の立花宗茂の柳川城も開城させました。
11.関ヶ原後の官兵衛
関ヶ原の戦いが終わった時点で官兵衛は九州の大半を制圧していました。ですが、官兵衛は天下を取るより平穏な生活を送りたいと思い家康に服従します。そして、長政は家康に筑前国52万石の福岡藩の藩主に抜擢されました。
一方で官兵衛は、1601年に福岡の博多に移住しました。そして、福崎の地名を「福岡」と改称しました。福岡が福崎と呼ばれてたのは知りませんでした。実は黒田家が発展した地である「備前福岡(岡山にある地名です)」にちなんだものです。その備前福岡は官兵衛の曾祖父の代に黒田家一族が逃げ延びてきた地でした。それで、先祖の黒田家は備前福岡で再興を誓っていました。その経緯から官兵衛は福崎から福岡に改称したそうです。
12.最期
官兵衛は福岡に移住すると名島城に代わる福岡城の築城に着手します。これが最後の築城となりました。福岡城を築城するきっかけは長政が名島城下の地域が狭いことを嫌ったためだそうです。それで、官兵衛は築城に着手し太宰府満点宮にある鳥居の東に移住しました。この太宰府天満宮の境内には官兵衛が茶の湯のために使用していた「如水の井戸」が現在も残っています。
また、晩年は築城中の福岡城内三の丸に住居御鷹屋敷を構えました。ただ、官兵衛は福岡城の完成を見ないで1604年に療養のために移り住んでいた京都伏見藩邸にて59歳でなくなりました。
官兵衛の逸話
まだ話すことがあるのかって?ただでさえ長かったからそう思いますね。ただ、まだ話どころはあるのでもう少しお付き合いを!
1.茶の湯が苦手だった官兵衛
秀吉は茶道に力を入れていました。ですが、官兵衛は「武士がすることではない。主催と客人が狭い席に座り不用心すぎる」と茶の湯を嫌っていたそうです。なのに、秀吉は敢えて密談の際に官兵衛を茶の間に招き、「こういう密談が茶の湯の利点である。何もない日にお前を呼んで密談をすれば怪しまれて面倒ごと起こすけどここならば茶の湯という名目で怪しまれることはない」と言いました。これに官兵衛は茶の湯のすばらしさを理解し、茶の湯を好きになったそうです。
2.築城マスター
官兵衛は加藤清正や藤堂高虎と並ぶ「三大築城名手」の1人です。官兵衛は限られた条件で最大の結果を生む効率的な城造りを得意とし大坂城や名護屋城など天下人の巨大プロジェクトにも深く関わりました。メインなのは福岡城、中津城、姫路城、大坂城、名護屋城、広島城を築城しました。官兵衛の築城特徴はただ頑丈な城を造るだけではないです。地形を活かした巧妙な区画設計や実戦での攻防を計算した設計を得意としていました。
3.半兵衛と官兵衛
秀吉の家臣だった竹中半兵衛と黒田官兵衛は「両兵衛」と称されていました。2人とも名前に「兵衛」がつくからこのコンビ名になりました。役割分担としては半兵衛は戦術や調略の天才で官兵衛は外交や総合的な軍略の天才として活躍していました。2人は互いの才能を認め合い命懸けの友情で結ばれた盟友でした。その例として先ほど話した有岡城の幽閉の件です。官兵衛は竹中半兵衛への感謝の気持ちを忘れないために、竹中家の家紋「黒餅紋」を使うようになったと言われています。
ただ、このコンビは半兵衛が播磨攻めの陣中で病没したことで終わってしまいました。ですが、半兵衛は死の直前に形見として官兵衛に自身の軍配を託しました。半兵衛は自分亡き後の軍師の役目は官兵衛にしか務まらないという思いがあったとか。そのため、官兵衛はその遺志を受け継ぎ名軍師として本格的な大躍進を遂げることになりました。
まとめ
こんなに書きどころがあるなんて思ってもなかったです。それもあって、字数的に官兵衛がキリシタン大名の詳細や関ヶ原の時の話など端折った部分はありますが。あと、教科書には黒田官兵衛ではなく「黒田如水」と書かれているため官兵衛=如水だったことは今回で知りました←。要するに、官兵衛のことを書いて色んなことを学べました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう