どうも、りかちゅうです!今年の大河ドラマは蔦屋重三郎という江戸の文化人ですね。今回はちゃんと見たいとは思いますけどね。こればかりはシナリオ次第ですね。ただ、ちゃんと見たいくらい重三郎は見がいのある人物ではあると私は思っています(私は江戸の文化は疎いものの、彼の功績はすごいなとは思います。まあ、江戸のプロデューサーですからね)。だからこそ、この記事にて重三郎のことについて話しますね!
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蔦屋重三郎のプロフィール
2025年の大河ドラマの題材となる人物だからこそまずは彼のプロフィールから見ていきましょう!
名前 蔦屋重三郎
芸名ではありますけどね。本名は喜多川珂理です。
生年月日 1750年1月7日
出身地 吉原
吉原なんて文化人らしい生まれですね。あの時代の吉原は文化の塊ですね。
没年 1797年5月6日
備考
江戸のエンタメを手がけた名プロデューサーです。具体的には文化と出版業界を大きく変革した人物だそうです。江戸の文化に華を咲かせた人物と思えばいいですね。
蔦屋重三郎の人生
以上が蔦屋重三郎のプロフィールです。一体どのようにして江戸のプロデューサーになったのかと思いますよね。ですので、彼の人生について話しますね!
1.生い立ち
重三郎は1750年に江戸の吉原でうま」ました。ちなみに、お父さんは遊郭の勤め人丸山重助でお母さんは津与という女性です。となると、重三郎はお父さんの元で遊郭を学んだのか?違います。実は重三郎は幼くして引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川家の養子となり吉原で育ちます。引手茶屋とは遊郭にある居酒屋や喫茶店のことです。今でいう繁華街の飲み屋と思えばいいです。
2.小さな本屋を始める
重三郎は大きくなってから本の出版で最大手だった鱗形屋の書籍を販売したり本の編集を手伝ったりして生計を立てていました。ただ、それだけ終わりではないです。20歳頃に重三郎はは引手茶屋の一角を間借りして小さな書店を始めました。その際に重三郎は書店経営を通じて人々が求めているニーズを読み取る才能を磨いたそうです。
※吉原にいる人のニーズはもうあれしかないですよね?遊郭の遊びスポットや、遊女の評判がわかる本しか勝ちません(今でいう夜のお店や夜の女の子特集ってところでしょうね)!あとは遊女のための本にはなりますが男性客とコミュニケーションを取るための教養や流行りがわかる本も需要があったそうです。
3.24歳でデビュー!
時は1774年。24歳になった重三郎は「一目千本」を出版しデビューします。内容は吉原の遊女たちを花に例えて評した本で吉原の常連客や遊女たちの間で大ヒットしました。それから1775年、重三郎に千載一遇のチャンスが訪れます。それは吉原の遊女やお店を紹介するガイドブックこと「吉原細見」の出版を独占していた老舗の鱗形屋が盗作疑惑で処罰を受けて吉原細見の出版ができなくなったことでした。そこで、重三郎は吉原細見の出版を名乗りを上げたのです。
その実績は素晴らしいです!重三郎が出版した「吉原細見」は遊郭や遊女の詳細な情報が載っており誤りも少なかったそうです。さらに、天才発明家だった平賀源内にガイドブックの序文を書いてもらったことが評判となり重三郎は江戸の有名人になりました!
4.喜多川歌麿との出会い
吉原細見で成功を収めた重三郎は1783年に一流の出版社が集まる日本橋に「耕書堂」を開業しました。
その際に重三郎は書籍だけでなく浮世絵の分野にも事業を拡大します。その時に喜多川歌麿とと出会います。歌麿の才能を見抜いた重三郎は彼を専属絵師として迎え入れ徹底的にプロデュースしました。それだけで終わりではないです。重三郎がプロデュースした文化人は葛飾北斎、東洲斎写楽、山東京伝、十返舎一九など多岐に渡ります。みんな文化人として有名ですね。
5.寛政の改革と弾圧
1787年に重三郎にとっては最悪の事態が起きます。これは田沼意次が失脚したことです。田沼意次は商業の活性化を重視し自由な出版活動を認めていました。ですが、新たに松平定信が老中となったことでそうはいかなくなりました。
なぜなら、松平定信は質素倹約という考えから娯楽の象徴である浮世絵や小説に対して規制を強化したからです。そのせいで重三郎は1791年に自身が出版した山東京伝の3冊が取り締まられました。処分内容としては山東京伝は手鎖50日の処罰されました。また、それだけではなく重三郎は財産の半分を没収されました。それでも、彼は諦めませんでした。
※松平定信が厳しい取り締まりをするから「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という川柳ができたんでしょうね。意味としては厳しい取り締まりをする松平定信よりもいい加減な点のある田沼意次のやり方の方が良く思えるってことです。これは現代にも言えることではないのかなと思います。
6.美人大首絵を作る
重三郎と喜多川歌麿は規制をかいくぐる新たな表現方法を模索します。それが「美人大首絵」という手法でした。このようなものです!
全身像ではなく女性の上半身のみを描き、その代わりに顔の表情や髪などを繊細に描写しました。この試みは大成功しました。その影響で喜多川歌麿は「美人画の第一人者」としての地位を確立しました。ですが、幕府の規制が年々強まる中、重三郎と喜多川歌麿の作品に対する想いが次第に食い違うようになったため喜多川歌麿は重三郎との契約を解除し離れました。
7.独立と東洲斎写楽の出会い
一方、重三郎は東洲斎写楽をプロデュースします。その際に重三郎は無名の写楽を一気に売り出すために28枚の役者絵を同時発売するという大胆な企画を実行しました。その絵も独特です。基本的にはモデルを実物よりも綺麗に描きます。ですが、ら写楽はあえてモデルを美化せずその個性を活かしました。みんなと違うことをしているからハイリスクな売り方ではありますよね。それはそうですが結果は見事に成功しました。ですが、写楽はわずか10ヶ月で筆を置き姿を消してしまいました。
8.最期
1797年に重三郎は病に倒れ48歳でこの世を去りました。死因は当時流行していた脚気だったと言われています。ちなみに、脚気の原因は炭水化物を食べすぎたことによる糖尿病だったと言われています。
蔦屋重三郎のエピソード
以上が彼の人生です。プロデューサーとしては優秀ですね。だからこそ、彼にも色々エピソードがあるのかなと。そこら辺はこれから話しますね!
1.遊女をプロデュース
遊郭は主に生活に困って売られた娘たちの居場所でした。ですが、江戸っ子たちは家族のために奉公する遊女を偏った目で見るようなことはないです。年季の明けた彼女らを受け入れていました。なんなら
トップクラスの遊女ともなれば財政界の大物と対等にやりとりをするような教養はあるため人々が一目会いたいと憧れるスターのような存在です。そこで、重三郎は遊女たちを知的で上品にプロデュースしたそうです。
2.江戸のメディア王!
1783年に重三郎は老舗が並ぶ日本橋の通油町へ出店しました。もちろん、黄表紙や洒落本のヒット作を蔦屋版が独占します。その時も重三郎は工夫しました。実はその当時戯作者の多くは武士の階級出身でした。例えば、黄表紙を代表する朋誠堂喜三二は秋田藩の江戸留守居役です。また、狂歌師の太田南畝は勘定所勤務の役人です。一方で重三郎叩き上げの商人ですね。武士と商人がどう上手くやるこか?なんと身分の違う武士とが意気投合して遊び心あふれる作品を生み出したそうです。そのような作品は庶民を熱中させたそうですよ?斬新な作品で人を引き寄せたんですね!
蔦屋重三郎とTSUTAYA
ギャグみたいなことを言うなって?違います!実は重三郎とTSUTAYAは繋がりがあります。なんとTSUTAYAの創業者こと増田宗昭のおじいちゃんの屋号は「蔦屋」だったそうです。また、増田宗昭は重三郎の名前をあやかって「TSUTAYA」という店名にしたそうですよ。ちなみに、「TSUTAYA」になる前は「蔦屋書店」としてビデオレンタルと書籍の複合店舗として運営していたそうですよ。
まとめ
思ったよりもたくさん書いてしまいましたね。江戸の文化って面白いですね。受験目的で学習するとしんどいですがそういうの抜きにしたら楽しいと思いました。これは大河ドラマの題材が重三郎であるおかげですね。だからこそ、今年こそは楽しめる作品であることを祈ります。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう