道隆と道長が全盛期だった頃の天皇は誰だかご存知ですかね?ヒントは定子を愛した天皇です。答えは一条天皇です。彼の特徴は美男子です。平安のイケメンだったそうです。それ以外にないのって?彼は貴族が全盛期だったころ上手い形で政に参加した天皇です。道長とタッグを組んで国を治めたとも言われています。見かけもいいし仕事もできるってすごいですね。一体何者なのか?この記事にて話したいと思います!
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一条天皇のプロフィール
一条天皇は平安時代ではキーパーソンです。ですので、彼のプロフィールから見ましょう!
名前 一条天皇
生年月日 980年7月15日
没年 1011年7月25日(享年32歳)
備考
定子のことが大好きな天皇です。道長が権力を得たとしても定子にことを気にかけていましたからね。とは言っても一条天皇は定子が亡くなってからは彰子を愛したのはもちろんのこと道長とも上手くやっていたそうです。
一条天皇の人生
以上が一条天皇のプロフィールです。早く亡くなったものの、貴族が栄えている時にうまくやれたのはすごいと思います。では彼はどんな人生を歩んだのか?
1.7歳でプリンスになる
一条天皇は980年7月15日に平安京で生まれました。お父さんは円融天皇でお母さんはは藤原詮子です。生まれながらの坊ちゃんですね。平安京は当時の日本の政治と文化の中心地で生まれている時点でね?そのため、幼少期から皇位継承者としての教育を受け将来の天皇としての準備が進められていました。
子供のころから英才教育を受けていたんですね。そんな一条天皇は986年に天皇として即位しました。時系列的に見たら7歳で天皇ってことになりますね。なぜそんなに早いのか?このときすでに円融天皇は退位し花山天皇の御代でした。ですが、花山天皇が寛和の変で突然出家したため一条天皇がその後を継ぐことになりました。もちろん、7歳での天皇即位は当時としては最年少の記録です。そのため、藤原兼家が摂政に就任し一条天皇の幼少期の政治を支えました。安定の藤原が牛耳りますね。
2.定子との結婚
一条天皇の元服の儀が行われたのは990年です。一条天皇は11歳ですね。時代が時代でも早いですよね。道隆の娘でもある定子を一条天皇と結婚させたかったからです。もちろん、年齢は定子の方が年上です。ですが、一条天皇は知的で明るい性格の定子を姉のように慕いやがて2人は愛し合うようになりました。なんなら、一条天皇は定子が一番であるかと思われます。ただ、この幸せな生活もそう長くは続きませんでした。
3.伊周の失脚
995年に定子のお父さんこと道隆が亡くなりました。本来ならば道隆の嫡男こと伊周が後継者です。ですが、一条天皇は伊周がそのまま関白となることは認めませんでした。理由は一条天皇のお母さんこと詮子が道長を関白に推していたからです。さらに、996年に長徳の変にて伊周と隆家が花山法皇の従者と乱闘を起こしたため(理由は伊周が花山法皇が伊周と同じ女性の元に通っているのではという誤解をしたからです)伊周は失脚しました。そのせいで定子は隠居してしまいました。それでも、一条天皇は定子が好きなので呼び戻そうとしました。その結果、定子は隠居から戻ってきました。
4.彰子との結婚
伊周が失脚してから道長が権力を得るようになりました。それもあって、999年に道長は権力をより確かなものにしようと12歳になった彰子を一条天皇と結婚させようとします。これななかなかな展開なんです。実はその定子が第2を出産したその日の夜に一条天皇は彰子との初夜を過ごしたそうです。一条天皇はどんな気持ちなのか。とは言えども彰子と一条天皇の年齢差は8歳です。そのため、一夜と言っても帳の中で過ごすだけの「雛遊びの后」と呼ばれる存在にすぎません。それなのに、道長の後押しによって彰子は早々に中宮となり、定子は中宮から皇后になりました。これは第1位の后が2人並ぶという前例のない事態です。とは言ってもそれからすぐ定子が亡くなってしまったため本命の后は彰子ってことにななりました。
5.彰子との子供を作る
一条天皇と中宮彰子の間には後に天皇となる後一条天皇と後朱雀天皇が生まれました。この事実は道長の栄華を盤石なものにしました。また、この2人の天皇は平安時代の皇室の重要な人物として活躍しました。ただ、一条天皇は定子との間に生まれた敦康親王を次の天皇にしたいと望みましたが叶えることはできませんでした。
6.最期
一条天皇が亡くなったのは1011年32歳のときです。一条天皇の最後に付き添ったのは彰子です。そのため、一条天皇は彰子にこのような和歌を送りました。
露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき
この世に君を置いていくことが悲しい
この世に置いていく「君」とは彰子のことと考えるのが自然です。しかし天皇の側近であり「権紀」の作者でもある藤原行成はこの句は定子に向けて詠んだものであると捉えました。「君」がもし定子のことを指しているとなれば定子の魂は俗世にありと一条天皇は思っていたと思われるという解釈ですかね。
一条天皇が亡くなったという事実は平安時代の一つの時代の終わりを告げるものでした。一条天皇の時代は藤原家の権勢が最盛期に達し文化が花開いた時代だったそうです。そのため、彼の死後もその影響は長く続き後の天皇たちに多大な影響を与えました。
一条天皇のエピソード
以上が一条天皇の人生です。キーパーソンであることが伝わりますね。だからこそ、彼のエピソードも見ていきましう!
1.増えの才能がある
一条天皇は横笛の名手で元服の年に円融法皇の御前で笛を披露し陽成天皇の遺愛品である名笛「赤笛」を譲り受けたというエピソードがあります。また漢詩や漢文を好みました。その際にその趣味の良き相手となったのが定子と、定子の兄である伊周でした。趣味まで合う夫婦だったことになりますね。
2.民衆思いの天皇
一条天皇は寒い夜にはわざと御直垂を脱いで寝るなど民衆への配慮を示す逸話も残されています。一条天皇は人々が寒い中で苦しんでいるのに自分だけ暖かく寝るのは不憫だとの理由からだったと伝えられています。こうしたエピソードは一条天皇の優れた人格を示すものとして語り継がれています。一条天皇が身体が弱いのによくこのようなことができますね。本当に心の優しい人なんでしょう。
3.道長の右腕でもあった
一条天皇の時代は摂政・関白が政治の実権を握ったといわれる時代です。道隆や道長が牛耳っていた時代と思えばいいです。ですが、一条天皇は摂関家と協力して神事や政務を行いました。また、分け隔てなく優秀な人材を取り立てたことから知力にすぐれ物事の道理を知るという意味を持つ「叡哲欽明な天皇」であったと評価されています。また、一条天皇にとって道長は政務を行う上では右腕のような存在でもあったそうです。
まとめ
この記事書いていて思ったんですが、彰子からしたら複雑な立場ですよね。もし一条天皇が定子を忘れらないという考えがあった可能性はなくもないわけですから。そうじゃなきゃ、最期の和歌は定子にむけた和歌と言われる説は出ませんからね。とは言っても、一条天皇は彰子のことは愛していたとは思いますよ?政治絡みだけとは思ってはいないはずです。ですが、定子のことが一番って思っていた可能性はなくもないからこそ彰子からしたらどう思うのかなとは思いました。以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。