どうも、りかちゅうです!江戸文化はたくさんの作品があります。書物や浮世絵など数えきれないものがありますね。私自身、覚えきれないです。その際に、当たり前ですが作品を作るのではなく作ったものを出版する人がいました。重三郎もその1人ですね。ただ、重三郎は娯楽です。学問関係は違う人がやっていました。それは須原屋市兵衛という人です。マイナーな人ではあるものの、有名作品を刊行した人です。ですので、この記事にてその話をしますね!

須原屋市兵衛は店主としての通称!

須原屋市兵衛とは本名ではないです。版元であり歴代店主の通称です。戦国時代でいう服部半蔵と似たような感じですね。それで、今回話すのは2代目です。名前は宗和だそうです(ここでは須原屋市兵衛にしますね)。須原屋市兵衛は江戸出版業界最大手の「須原屋茂兵衛」の分家として活動し申椒堂という屋号を名乗っていました。特に、平賀源内や杉田玄白などの蘭学者と密接な関係を持ち版元として多くの学術書を世に送り出しました。

このように、須原屋茂兵衛は本を出版させるという形で日本の知識人層に多大な影響を与えました。

須原屋市兵衛のプロフィール

残念ながら彼の人生的なデータは少ないんですよね。ですが、一応ですがプロフィールを載せますね!

名前 須原屋市兵衛宗和

生年月日 不明

没年 1811年6月9日

備考

江戸最大手の出版人です。知識関係に関しては大いに貢献した人物です。ただ、彼の家は彼の代で終わってしまいました。その理由は後ほどわかります。

須原屋市兵衛の人生

残念ながら須原屋市兵衛のデータは少ないです。ただ、少ないながらに彼の人生について話しますね!

1.日本橋に店を構える

須原屋市兵衛の幼少期の記録はあまり残されていません。記録が残っているのは市兵衛が江戸最大の書物問屋・須原屋茂兵衛の分家として日本橋に店を構えてからです。

2.須原屋一門の立ち位置

何を刊行したかに関しては量が多いので後ほど話します。ただ、須原屋一門は江戸でどのような立ち位置だったのか?

須原屋一門は著しい発展を遂げ江戸最大の書店問屋となりました。実際としては1817年には店数は江戸書物屋仲間63軒中12軒を占めました。また、江戸出版界の刊行物の約3割に達するまでに成長したそうです。

3.晩年

1811年6月9日に須原屋市兵衛は亡くなりました。須原屋市兵衛が携わった出版物の影響力は知識と情報の流通を加速させました。また、江戸だけでなく現代にも貢献したそうです。

須原屋市兵衛が刊行した有名作品

須原屋茂兵衛が版元として有名なのは江戸時代の有名な文化書籍をリリースしたからです。では、具体的にどのような作品を刊行したのか?

1.物類品隲

1763年に刊行された作品です。物類品隲は平賀源内による博物学書で物産会の出品物から厳選した360種の自然物を分類・解説したものです。物類品隲は全6巻(本文4巻、図絵1巻、付録1巻)で、本文は水と土と草などで分類されています。また、図絵には珍品36種、付録には朝鮮人参とサトウキビの栽培法・製糖法が記載されています。

2.火浣布略説

1765年に刊行された作品です。平賀源内による石綿織物「火浣布」に関する記録です。源内は1764年に奥秩父で採取した石綿から火浣布を創製し、その成果を広めるためにこの書を執筆しました。火浣布略説は半紙本15枚の小冊子で中国古代の火浣布に関する説を紹介しました。ですが、それらを妄説と否定しやした。そして、自身が織り上げた火浣布の由来を記述した上で清国の商人への送り状や火浣布製馬掛羽織の注文書がついたものだったそうです。

3.解体新書

1777年に刊行された作品です。「解体新書」とは西洋医学書「ターヘル・アナトミア」を日本語に翻訳した書物です。杉田玄白が清書係を、前野良沢が翻訳係を務めました。解体新書ができた経緯としては1771年に蘭方医の杉田玄白と前野良沢は小塚原刑場で罪人の解剖を見学しました。その際に杉田玄白と前野良沢は所持していた「ターヘル・アナトミア」と解剖を見比べたんですよ。そしたら、その本が解剖の内容が正確で驚きました。その経緯から杉田玄白と前野良沢は「ターヘル・アナトミア」を日本語に翻訳することに決めました。

そして、その翻訳したものを須原屋市兵衛が刊行しました。これはハイリスクでした。実はその当時、西洋医学は世に受け入れられるどころか弾圧される恐れもありました。そこで、江戸幕府の奥医師こと桂川甫三を通じて徳川家治に献上したそうです。

4.三国通覧図説

1786年に刊行された作品です。「三国通覧図説」は林子平が書いた軍事地理書で国防や隣国政策に関する先見的な書物です。特徴としては書き方が新鮮です。なんと、書いているものは日本の隣接する朝鮮、琉球、蝦夷地、そして小笠原諸島の地理事情だけでなくそれらの地域の風俗についても挿絵入りでまとめた先駆的な一冊なんです!ただ、この作品は1792年に林子平が幕政批判の件で処罰された時に本書は絶版を命じられました。また、須原屋市兵衛も重い処罰を受けました。

「三国通覧図説」で処罰された理由

「解体新書」は罰されなかったのに「三国通覧図説」は罰されてしまいましたね。なんでそんなことになったのか?

1.正確さに欠ける

本州、四国、九州以外の地域を測量するのは困難でした。そのため、「三国通覧図説」の地図は正確さを欠いた内容となっています。ただ、林子平が「三国通覧図説」で書きたかったことは日本を取り巻く近隣国についてです。なぜなら、彼は近い将来日本が外国から受ける圧力を予感していたからです。となれば、これだけで幕府が咎めるのもちょっと違いますよね。

2.他の作品に問題あり

実は「三国通覧図説」そのものが幕府に咎められたわけではないんです。実は林子平が書いた「海国兵談」が咎められたんです。「海国兵談」は1786年に執筆を開始し1791年に刊行された書籍です。内容は外国から日本を守るための軍備の必要性を説くものでした。これが松平定信に疎まれ発行を禁止されました。また、版木没収の処分となりました。その経緯から須原屋市兵衛も処分になったんです。

処罰後の須原屋市兵衛

それ以降も須原屋市兵衛は1807年に「由利稚野居鷹」、1808年に「三七全伝南柯夢」とたて続けにの作品を刊行しました。とは言えども、それ以降単独での出版はなくなりました。どうやら、1811年に須原屋市兵衛が亡くなると共同出版のみを手がけるようになだたそうです。そして、1823年に3代目が亡くなってから須原屋一門は休業になりました。

重三郎との対比

「べらぼう」の主人公こと蔦屋重三郎だって出版業界の人間ではと思いますね。ですので、2人を対比しますね。

重三郎は浮世絵や洒落本などエンターテインメント性を重視した出版物を手がけました。特に喜多川歌麿や東洲斎写楽といった浮世絵師を支援しました。一方で須原屋市兵衛は学術書や蘭学書などを出版しました。知識の普及と啓蒙を目的とした出版を行いました。このように、重三郎と須原屋市兵衛は出版するコンテンツが違いました。

まとめ

最大手の出版屋となるならば、絶版や処分なんてされたくないと思うはずです。今まで築き上げてきたものが壊れてしまいますからね。それなのに、2代目須原屋市兵衛はこの覚悟を持って色々出版したんですね。これは自分の家よりも江戸の人たちに学問を普及させたいという考えからやったことなのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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