どうも、りかちゅうです!秀吉には子供がなかなかできませんでした。そのため、後継作りには大変でした。そんな時に候補となっていたのは秀吉の甥っ子こと秀次です。彼は秀頼が生まれる前は関白に就いたり最終的に秀吉の養子になったりと活躍していました。ですが、秀頼が生まれてから色々あって結末は切腹という悲しい人生を歩みました。それで、今回はそんな秀次について話したいと思います!

豊臣秀次のプロフィール

秀次に関しては大河ドラマを見てる人ならば認識ありますね。私は真田丸の秀次が印象に残っています。新納さんだからかもしれませんが。まあ、そんなことはさておき彼のプロフィールからスタートしますね!

名前 豊臣秀次

生年月日 1568年

没年 1595年8月20日

備考

秀吉の甥っ子です。もし秀頼が生まれなかったら秀次が跡継ぎになっていた感じではありました。これって秀吉って種無し男なのが見え見えですね。ですが、秀頼が生まれてから立場が危うくなりいきなり謀反にかけられて切腹に至りました。

豊臣秀次の人生

以上が秀次の人生です。彼の最期は可哀想ですね。それもあって、その最期の方がインパクトあります。ただ、それ以外にもネタになる話はあります。ですので、彼の人生をこれから話しますね!

1.生い立ち

秀次は1568年に尾張国知多郡大高村でうまれました。お母さんは秀吉のお姉さんのともでお父さんは三好吉房です。秀次は長男でした。幼名は治兵衛と名付けられました。ただ、秀次は実家で育つわけではないです。色々あって養子生活がスタートします。その話をこれからします!

2. 宮部継潤の養子になる

1570年4月に信長と同盟を結んでいた浅井家が離反しました。そのため、信長たちは浅井家と朝倉家の討伐のために動いていました。その際に秀吉は小谷城の他の支城に対して次々と調略を試んでいました。それで、秀吉は1572年に浅井長政の家臣かつ宮部城主の宮部継潤を調略をしていた時に継潤は安全を保障するための人質が欲しいと言いました。その時に選ばれたのは秀次です。まあ、名目上秀次は継潤の養子とされたため秀次は百姓名を棄て通称を吉継と改めて宮部吉継を名乗ることになりました。

3. 三好康長の養子になる

1582年に起きた本能寺の変以降、秀吉は畿内での連携を強めるために今度は河内国の高屋城の城主こと三好康長のもとへ秀次を引き渡します。こうして、秀次は三好康長の養子となり三好信吉と改名して三好家の元にいることになりました。そして、1583年頃には信吉が残った三好家の家臣団を率いる立場となり河内北山2万石の大名になりました。ちなみに、秀次は1582年の山崎の戦い直前に秀吉のもとに馳せ参じた池田恒興の娘こと若政所と秀次婚約が決まり1583年には結婚しました。ただ、三好家にいる期間は短かったです。なんと1584年の春頃に羽柴姓に復帰して羽柴信吉と名乗り三好康長のもとを去り秀吉の元に行ったそうです。

4. 小牧・長久手の戦いでやらかす

1584年3月に秀次は家康と秀吉の戦いこと小牧・長久手の戦いでは失態を演じました。秀次は池田恒興と義兄こと森長可が三河国に攻め入るという中入り策を秀吉に強く提案ひました。その際に秀次はこの別働隊の総大将になりたいと志願して秀吉に認められました。ですが、1584年4月9日に白山林で榊原康政と大須賀康高らに奇襲されて壊滅的な大敗をしました。その影響で秀次は秀吉から激しく叱責されました。

5.名誉挽回!

1585年に秀吉が紀伊雑賀征伐に出陣すると秀次は秀長とともに副将を任されました。これで名誉挽回できました。なんとわ3月21日に千石堀城の戦いでは秀長軍は四方より猛然と攻めかかり首は一つも取らずに打ち捨てました。また、一揆勢を皆殺しにして城を落としました。この成果から1585年7月頃に秀吉の関白就任に前後し偏諱を受けて秀次と改名したことから羽柴秀次になりました。

それから、長宗我部元親が降伏し四国平定が終わると評定で大規模な国替え・加増が行われました。その際に秀次は自分の20万石と宿老たちへの御年寄り衆分として23万石が与えら43万石の大名となります。ちなみに、領地は近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡です。秀次は安土を見下ろし琵琶湖にも近い場所に八幡山城を築きました。

6.小田原征伐の報酬

1590年の小田原征伐に秀次は出陣し副将になりました。今度は家康の指南を受けるように指示されました。その際に秀次は山中城攻撃で秀大将となって城を半日で陥落させ松田康長の首を取りました。その小田原攻めの論功行賞で信雄領であった尾張国・伊勢国北部5郡などが秀次に与えられました。これで旧領と合わせて秀次は100万石の大大名となりました。居城を清洲城に移しました。また、年寄衆の所領も東海道に転封されています。

7.秀吉の後継となる

1591年1月22日に秀長が、8月5日には秀吉の嫡男・鶴松が亡くなりました。秀吉からしたら鶴松を後継候補にしてたでしょうね。ただ、亡くなったことを機に11月に秀次は秀吉の養嗣子となったとされます。ただ、養子となった時期についても、従来から諸説あって判然とされてないです。その影響で関白職の世襲のために秀次の官位は急遽引き上げられました。まず11月28日には権大納言に、12月4日には内大臣に任ぜられました。そして、12月28日に秀次は関白に就任したと同時に同時に豊臣家の氏長者となります。

関白就任以後、秀次は政庁である聚楽第を主な住居として政務を執りました。ただ、諸事は秀吉が定めた「御法度」「御置目」に従うようにされていたため、秀吉が依然として統括的立場を保持してしました。ただ、秀吉の隠居地とされた伏見の築城作業に関しては秀次の管理下で行われました。そして、5月17日に従一位に叙せられ8月の大政所の葬儀も喪主は秀吉ではあったものの、葬儀を取り仕切ったのは秀次でした。

8.秀頼の誕生で立場が危うくなる

1593年8月3日に大坂城二の丸で淀殿が秀頼を生みました。その知らせを知った秀吉な8月15日には名護屋城を出立し25日に大坂に来て大変な喜びました。これは厄介ですね。秀頼が秀吉の嫡男ではありますから秀次と後継争いが起きかねないです。とはいっても、秀吉は当初聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見から自分が仲を取り持つつもりでした。

ですが、伏見は単なる隠居地から機能が強化されたことで大名屋敷が多く築かれるようになってしまいまきた。その影響で秀次を監視するような恰好になります。このように、秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭したことで秀次には暗雲となったようです。またこの頃に大坂城の拡張工事と京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されています。これは聚楽第の防備を削り大坂の武威を示す目的があるのではないのかという説があります。

9.突然の追放

1595年の6月末にいきなり秀次に謀反の疑いが持ち上がります。どういう謀反かも見えてないです。そして7月3日聚楽第に三成、前田玄以、増田長盛、富田左近など秀吉の奉行衆が訪れ巷説の真偽を詰問し誓紙を提出するよう秀次に要求しました。秀次はもちろん謀反の疑いを否定しました。今でも謀反内容が掴めないならそうなるのも無理ないです。そして、吉田兼治に神下ろしをさせた前で誓う起請文として7枚継ぎの誓紙をしました。ですが、これが仇となりました。その際に三成の言い分が影響を与えたそうですね。そして、秀次は秀吉に拝謁することは叶わず高野山へ追放されることになりました。

10.最期

このとき、秀次は服装の指定や出入り禁止を命じられ監禁に近い形で隠棲の身となってしまいました。そして、追放が決まってからわずか1週間ほどで秀次は切腹を命じられ28歳で人生の幕を閉じました。この秀次の処刑に伴い妻妾・子・家臣とその家族を含む30人以上が京都三条河原で斬首となりました。これで秀次の関係者は徹底的に皆殺しにされたことになります。自分の甥っ子をそこまでさせるって相当のことですね。もちろん、謀反の内容が明確でないのに唐突に起きた秀次事件残忍な処断であったため諸大名や民衆にまで豊臣政権の不安は広がりました。

秀次事件のせいで豊臣政権は危うくなった?

秀次事件は単なるお家騒動では済みませんでした。この事件は豊臣政権に致命的なダメージを与えることになります。

まず秀次の側近だった大名や処刑に反発した武将たちが秀吉から心が離れました。謀反に対する内容もよく分からない感じならば尚更ですね。また、秀頼はまだ幼く秀次を失ったことで成人の後継者がいなくなった。その影響で秀吉の死後は家康が力をつけました。要するに、秀次が生きていれば秀吉の死後に豊臣家をまとめる大人の後継者が存在していたことになります。そのため、この事件は結果的に豊臣家の滅亡を早めたと言っても過言ではありません。

まとめ

秀吉って側室の数はかなり多かったんですよね。女好きだけあって。それなのに子供がなかなかできないって種無しかと。淀殿の子供だって本当は大野治長の子供説だってありますし?いや、あれはどう見ても秀吉の子とは思えないですから。というか、あそこまで側室いて種ありなら秀頼の前に子供はできてたかと。それなのに、秀次を切腹にまで追いやるのは損失でしかないし秀次にとって悲劇な最期を迎えなくても良かったのではないのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

SNSシェア