どうも、りかちゅうです!恋川春町という方はご存知ですか?私は教科書に載っているなという印象はありますね。江戸文化は覚えるのが大変だったものの彼の名前はなぜか覚えていました←。その彼は何をしたのか?黄表紙の起源でもあり黄表紙で有名になった男です。「金々先生栄花夢」は代表作ですし教科書にも載っています。また、恋川春町は武士もやるとマルチでした。何者と思いますね。この記事にて話しますね。
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恋川春町のプロフィール
教科書にも載るくらい有名な恋川春町。一体どんな経歴の持ち主なのか?まずは彼のプロフィールから見ていきましょう!
名前 恋川春町
本名は倉橋格です。江戸小石川春日町(今の文京区小石川)に住んでいたことから地名をもじって恋川春町という名前にしたそうです。
生年月日 1744年
出身地 静岡県
没年 1789年8月27日
備考
黄表紙と金々先生で有名な男です。初めは鱗形屋孫兵衛の元で書いていたものの、鱗形屋が廃業してからは重三郎の元で書いていました。ただ、寛政の改革の時に大胆なことをして取り締まられました。
恋川春町の人生
以上が彼のプロフィールです。では、彼はどんな人生を歩んだのか?
1.生い立ち
恋川春町は1744年に駿河国の小島藩(現在の静岡市清水区周辺)に生まれました。本名は「倉橋格」です。18歳のときに叔父の倉橋勝政の養子となり、江戸藩邸が置かれていた小石川春日町への出仕をはじめました。ですが、当時は収入が低く、生活が困窮。そこで恋川春町は、絵を副業にしようと試みます。
※ 恋川春町の武士としての評価も徐々に高まり順調に出世しました。そのため、1771年には刀番に就任し10両2人扶持の俸禄を得るようになったそうですその頃には収入は安定したそうです。
2.鳥山石燕のところに入門
恋川春町は人気絵師の勝川春章の絵を模範にして絵の腕を上げました。その後、浮世絵師の鳥山石燕のもとへ入門したした。その際に恋川春町は勝川春章の「川」と「春」の文字を取り恋川春町としました。そして、1773年頃から洒落本の挿絵を担当します。
3.朋誠堂喜三二との活動
恋川春町は盟友となる朋誠堂喜三二と活動を共にました。具体的には1773年に朋誠堂喜三二が「金錦佐恵流」の名で刊行した洒落本「当世風俗通」では恋川春町が無記名で挿絵を手伝ったと言われています。こうした経験を糧にして、恋川春町は戯作者としての才能も身につけていきます。
4. 「金々先生栄花夢」の刊行
1775年恋川春町は風刺を効かせた戯作こと「金々先生栄花夢」を鱗形屋孫兵衛のもとで刊行しました。絵も文章も彼が担当しました。その際に主役の金々先生のキャラクターは当世風俗通から着想したそうです。また、知的な冗談がふんだんに盛り込まれていたため従来の洒落本にはない魅力をもった読み物となり大人気となりました。さらに、挿絵の割合を大きくしたことで洒落本よりも気軽に読める戯作として流行りました。
このように、「金々先生栄花夢」斬新な作風だったため以降同系統の作品は金々先生栄花夢の表紙の色にかけて黄表紙と呼ばれるようになりました。それ以降、恋川春町は次々と黄表紙を発表しました。その数は生涯において約30冊にものぼるそうです。
5.武士としての出世
一方で恋川春町は武士としても出世を続けます。1776年には取次兼留守居添役に抜擢され石高も100石以上となりました。その後も、側用人などを担っていったのです。武士をやりながら黄表紙を描くなんてマルチですね。
6.鱗形屋孫兵衛から重三郎に移行
鱗形屋孫兵の経営が悪化し1780年に、休業の危機に追いやられます。そのため、恋川春町は自らの出世作を生み出してくれた鱗形屋に義理を立てたからなのかしばらく執筆を休止しています。1783年からは重三郎と関わり始め「猿蟹遠昔噺」などのヒット作を連発し重三郎の飛躍を大いに支えました。
7.寛政の改革で大胆なことをする
松平定信寛政の改革を始めたころ恋川春町は執筆時間の確保に苦心するほど忙しく創作が滞っていました。ですが、盟友の朋誠堂喜三二が執筆した「文武二道万石通」に触発され、「鸚鵡返文武二道」を刊行しました。寛政の改革への批判をこめて松平定信が記した書物「鸚鵡言」を風刺するという大胆な内容が世間の話題を呼びました。
8.最期
松平定信は幕政批判や淫らな書物への出版統制を強化しました。それと同時に恋川春町のもとには幕府から出頭命令が届きました。ですが、恋川春町は病気を理由に出頭を拒否し隠居しました。その数ヵ月後に恋川春町は亡くなってしまいました。死の詳細は明らかになっていませんが、自殺と推測する説もあります。
恋川春町の代表作
武士でもあり文化人でもあった恋川春町。そんな彼の代表作は何か?
1. 金々先生栄花夢
これは王道ですね。話の内容は江戸で立身出世を夢見る金村屋金兵衛が夢の中で栄華を極めたものの散財の果てに落ちぶれたところで目を覚ますという物語です。コミカルな展開がある中、「江戸で一発当てよう」と考える者が多かった当時の風潮を風刺した作品であることから江戸っ子の間で人気を呼びました。
2. 鸚鵡返文武二道
鸚鵡返文武二道も代表作のひとつです。菅秀才という人物が京都の中心部で武芸を推奨したら武勇の競い合いがはじまって大混乱が起こる、儒学者が学問を勧めると話がねじれて凧揚げがはじまるなど全編を通じて松平定信の政策を批判した物語になっています。にんきだったものの、寛政の改革における出版統制で絶版処分にもなりました。
恋川春町の得意ジャンル
まずは黄表紙です。おとぎ話、故事などをもとに皮肉や風刺を効かせて物語を展開しました。また、刊行した黄表紙の多くは自ら挿絵も手がけているため絵と文字で物語の背景や状況を詳しく説明することができました。さらに、恋川春町の作品は当時の世相の問題点を物語で浮き彫りにする手法が多々用いられています。そのため、政治や社会情勢、歴史の理解がないと面白みが理解できない作品でもありました。
恋川春町の逸話
実は彼は黄表紙や武士以外のこともやっていました。その話を含めて彼の逸話を話しますね!
1.狂歌もやってた?!
天明狂歌と呼ばれる狂歌ブームが巻き起こった時に恋川春町は黄表紙執筆をしながら「酒上不埒」の名で狂歌会を主宰しました。1785年には日暮里で大規模な狂歌会を開催し成功を収めています。また、もともと挿絵絵師としてデビューしたため高度な浮世絵の技術をもつ人物でもありました。その技術さ主に朋誠堂喜三二の著作で画力を発揮しました。黄表紙の「桃太郎後日噺」や「親敵討腹鼓」などの挿絵が有名です。
2.朋誠堂喜三二との親密さ
恋川春町は9歳年上の戯作者の朋誠堂喜三二と親密な関係を築いていました。その絆の深さを象徴しているのが、再婚の逸話です。
恋川春町が奥さんと離縁した時にもっとも寄り添った人物が朋誠堂喜三二でした。朋誠堂喜三二は新しい相手を探し再婚を手助けしているのです。また、朋誠堂喜三二が文章を書いて恋川春町が挿絵を担当する作品は数多く出版されました。その数は朋誠堂喜三二が生涯に手がけた黄表紙のうち約半数ほどです。
まとめ
恋川春町は教科書に載っている人だなくらいの人でした。ですが、「べらぼう」をきっかけに彼のことを調べたらまさか武士をやってるとは思ってもなかったです。一体どうやって両立したのと思いました。ただ、恋川春町といえば文化人だからなのか武士としての恋川春町のデータはそこまでないですよね。ですので、武士としてのデータも広まったらいいなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。