どうも、りかちゅうです!四国平定が終わってから秀長はある一国を任されることになります。しかも100万石とかなりの土地を所有したそうです。まあ、秀吉の弟だからそれくらいの石数は妥当ではありますけどね?ただ、大和国は厄介な点はありました。それは寺社勢力との兼ね合いです。大和国は寺社勢力が強く武士たちは手こずっていました。それを秀長は克服して大和国を統治しました。ですので、その話をこれからしますね!

 

大和郡山城のルーツ

大和郡山城は大和の戦国大名こと筒井順慶が築城し初代城主を務めていました。ですが、本能寺の変の後、秀長が紀伊攻めと四国攻めの武功により秀長は紀伊国、和泉国の2国と広大な土地を所領します。さらに、秀長は1585年に畿内の統治かつ軍事的拠点でもあった大和国を与えられ、計100万石を領有する大名へと上りつめました。

ちなみに、秀長が入城した時に秀吉とともに5000人の将士を従えたそうです。その後、秀長は大納言となったという話もあります。一方で秀長がくる前に大和郡山城を居城としていた筒井順慶の養子こと筒井定次は、秀吉により伊賀上野へ転封となりました。

大和郡山城の特徴

明治維新の廃城令まで続いた大和郡山城は堀や郭などの縄張りが秀吉の大坂城と似ていて、具体的には本丸や二の丸、追手門、毘沙門郭など壮大な城郭が築かれました。中でも荒々しく積み上げられた野面積みの石垣は春日大社境内の北を流れる水谷川から大石を切り出し、足りない分は寺院の礎石や五輪塔、石地蔵などからも転用しています。ただ、大和郡山城の天守は現存していなかったため、長年「幻の天守」といわれてきました。ですが、近年の発掘調査により礎石や金箔瓦が確認されたことで秀長の時代に五層の天守があったと考えられるようになりました。

大和国は寺社の力が強いことが問題だった

大和には鎌倉時代から室町時代を通じて武家の守護が根づきませんでした。そのため、興福寺が実質的な国の支配者として振る舞ってきました。その影響で国内の武士の多くは興福寺に属する衆徒や春日社に仕える国民として寺社に結びつき、寺社の領地は大和国中に入り組んでいました。

そんな中、戦国時代では松永久秀が力で押さえこもうとしたり筒井順慶が寺の衆徒から大名へとのし上がりったりしたものの、寺社の力そのものを崩すことはできませんでした。それ故に、秀長はこの問題をどうまとめるかが課題でした。

寺社問題をどう解決したか?

寺社問題はどの戦国武将も手こずってましたからね。そんな中、秀長はかなり頑張りました。では、具体的に何をしたか?

1.武器の取り上げ

秀長が大和に入った1585年の8月から活動開始しました。まず多武峰寺に対して弓や槍、鉄砲、具足、兜、刀などの武具をすべて差し出すよう命じました。多武峰寺は藤原鎌足をまつる山の寺で長く武装して興福寺とも争ってきた勢力です。もちろん、寺社が武器を持つかぎり領主の命令は通りません。そこで、秀長は国を治める最初の一歩として寺社の武力を取り上げることから始めました。これはのちに秀吉が全国で行う刀狩りにも繋がってきます。

2.寺社の土地の調査と取り上げ

1585年の9月秀長は寺社や村々に持っている土地とそこから取れる米の量を書き出して差し出すよう命じました。これを「指出」といいます。興福寺の僧が書いた「多聞院日記」には寺がそのことに関して丸1日かけて書き出したことが記されています。そして、9月の終わりには興福寺の領地から1万石を減らすという知らせが届き、それから1586年には申告と実際の違いが700石あまりも見つかったとしてさらに領地が取り上げられます。このような経緯から興福寺の領地は秀長が来る前のおよそ五分の一にまで小さくなりました。

3.城下町を栄えさせる

1585年の10月には奈良の町での商売を禁じ郡山で商いをするよう命じました。商人と職人を城下の郡山へ移すことで寺社ではなく城を中心にした経済をつくろうとしたのです。その中でも秀長は経済振興に力を入れました。これは後の町づくりに影響を与えました。

具体的には大和郡山城下の13町が免税や営業上の特権を受ける代わりに、月替わりでひとつの町が城下町全体の自治を担うこのを成立します。これを住民による「箱本」と言われています。詳細としては※秀長は商工業保護の政策として同業者を町に集め、町々にそれぞれの特許状を発行しました。その朱印状を入れた箱を「箱本」といいます。それで、当番月の町は「箱本」を保管して自治にあたったそうです。これは城下町発展の基礎となっていきました。

かなり厳しくやったらしい

秀長が大和で寺社に対してとった手段は厳しいものでした。武装解除、領地の申告と大幅な削減、従わない在地の武士の追放と寺社の既得権をはっきり削っています。それだけではないです。寺社が農民に無理な労役を課すことを禁じる掟も出しています。このように、秀長は寺社の力を削ぐことと、農民を守ることを同時に進めたのかなと思われます。

まとめ

秀長のやったことって後の秀吉が後々やることでもありますね。太閤検地や刀狩に繋がってくる感じがしているので。そう考えると、秀長のやってきたことって秀吉が天下統一するにあたっての参考材料を作ってくれた何かなのかなと思います。確かに、秀長はその時は日本全国ではなく大和国の統治ではありました。ですが、その大和国は他の地域よりも寺社勢力が強いため1から作り上げないといけないものです。それ故に、秀長の政に関しては天下統一の先駆けに近いものを感じがあるなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

りかちゅう

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