どうも、りかちゅうです!今回は村重の奥さんことだしついて話したいなと。村重は信長を裏切ったことで家族や家臣が残酷な結末を迎えました。あの時村重が折れてくれれば救われた人はいたものの武士の意地を貫いたことで悲劇が起きました。だしもその1人です。だしは村重の奥さんだったからこそ公開処刑な形で最期を迎えました。一体どんな人生だったのか?この記事にて話しますね!
index
荒木だしのプロフィール
村重の話は色々出ているものの、だしの話は女性だけあってそうないです。ただ、一応プロフィールは載せますね!

名前 荒木だし
生年月日 1558年
没年 1580年12月か1月
備考
荒木だしの人生
だしの人生は分かっているとは思いますが悲しい結末です。きっかけは村重が信長を裏切ったことです。では、どんな人生だったのか?
1.生い立ち
だしは1558年に生まれたと言われています。ただ、その正しい生年については資料によって3年ほど誤差があるためはっきりとは分かっていません。また、彼女のその出自については「立入左京亮宗継入道隆佐記」に「大坂にて川那う左衛門尉と申す娘」とあったことからお父さんは石山本願寺に仕えた川那部家、お母さんは田井源介の娘とする説があります。それ以外にも「前田家文書」では信長の側室こと生駒の方とその最初の夫とされる土田弥平次との間に生まれた娘とする説もあります。このように、だしは出自に謎が多い人物ではあります。
2.呼ばれの由来
だしという名前は有岡城の城郭にある「出し」に居住していたことから命名されたと伝えられています。そのため、だしの本名は「ちよほ」または「梶」だと言われています。
一方、キリスト教の洗礼名「Daxi」が由来であます。そのため、だしはキリシタンであったとする説もあります。ただ、後ほど話す辞世の句に「西方浄土」への憧れを詠んでいることから、この説は疑問視されてはいます。
3.村重に嫁ぐ
だしは池田勝正に家臣として仕えていな荒木村重の元へ嫁ぎます。村重は池田長正の娘を正室として迎え池田家の一族衆となっていました。だしは村重の継室または側室であった可能性が高いと推測されています。また、2人の年齢は20歳以上離れていたと伝えられそうです。ですが、夫婦仲は良く子どもを儲けていました。
4.村重が信長に仕えたものの
1578年10月に勃発した織田家と別所家による三木合戦で村重は秀吉軍につきます。ですが、その時信長のもとに「荒木村重が石山本願寺と内通している」という情報が舞い込みました。そこで、信長は村重に対して「母を人質に出し村重本人が安土城まで来て弁解すしてと寛大な条件を提示しました。
それで、村重は信長のところに行こうとしました。ですが、道中、中川清秀と高山右近から「信長は一度疑うと許さぬ人。毛利家と組んで籠城したほうが良い」と助言を受けたのです。その出来事はだしの悲劇の始まりです。
5.村重が信長を裏切る
その影響で村重は有岡城に留まって籠城し信長に反旗を翻しました。その際に信長は村重を説得すべく十兵衛や秀吉などの家臣達を派遣しました。ですが、村重は説得に応じることなく毛利家に援軍の要請を出し続けたました。最終的に毛利家の援軍も現れなかったため、村重は真夜中にわずかな側近と共に有岡城を脱出息子が城主だった尼崎城へ逃走しました。
一方で信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば有岡城に残る妻子の命を助ける」という条件が出されます。これは、信長が見せた最大限の譲歩と言える取引でした。それなのに、村重は城を明け渡すことを固く拒否しました。信長はここまで来たら有岡城に残るだしを含む人質達の処刑を決めました。村重という夫の決断のせいでだしは死に至ることになりますね…。
6.最期
1579年12月12日信長は甥の津田信澄にだしを含む37名の荒木一族を京都へ護送させました。そして、12月13日には有岡城に残った妻女122人が尼崎城外の七松という場所に美しく着飾った状態で磔にされ、槍や鉄砲で処刑されます。
一方、京都へ護送されただしは妙顕寺の牢へ入れられました。そして、12月16日だしは華やかな小袖で美しく着飾った状態で大八車に縛り付けられ京都市内を引きまわされました。痛々しい見せしめですね。それから、六条河原へ到着し大八車から降りただしは着物の帯を締め直し髪を高く結い直して小袖の襟を後ろへ引き首を差し出しました。そして、斬首されたと伝えられています。享年は21歳または24歳でした。
荒木だしの辞世の句
だしは夫の村重の事情で処刑されました。そのため、辞世の句はそれなりにあります。ですので、一部を紹介しますね!
1.子供との別れ
消ゆる身は 惜しむべきにも なきものを 母の思ひぞ 障りとはなる
・消えゆく自分は惜しむことなど何もないが、母として子を思う気持ちだけが煩悩となり、悟りの妨げになってしまう
・残しおく そのみどり子の 心こそ 思ひやられて 悲しかりけり
残していく子のことを思うと哀れで悲しい
だしは有岡城から護送される時に村重との間に儲けた子を密かに乳母の懐へ忍ばせ脱出させたそうです。
2.死への覚悟
・木末より あだに散りにし 桜花 さかりもなくて 嵐こそ吹け
盛りが来ぬうちに嵐が吹き、梢から無駄に散る桜のようだった
・磨くべき 心の月の 曇らねば 光とともに 西へこそ行け
心のなかの月はしっかりと磨いてあるからこそ、光と共に西方浄土へ行く
村重に送った返歌
だしは処刑される前、辞世の句の他に村重へ歌を贈りました。
霜がれに 残りて我は 八重むぐら 難波の浦の 底のみくずに
私は霜にあたり枯れた八重葎のようです。あとは大坂湾に沈み、海の藻屑となるだけでしょう
これを受けた村重はだしへこのような返歌を贈りました。
「思ひきや あまのかけ橋 ふみならし 難波の花も 夢ならんとは」
天の架け橋を踏み鳴らすように大坂で奮闘したが、儚い夢になるとは思ってもいなかった
夫のために潔く命を捨てる決意を固めただし。自身の失態によって妻を失うことになった村重の無念さが描かれる和歌です。
かなりの美人!
だしの美貌は幾つかの文献にも残っています。「信長公記」ではだしは有名な美人であると書かれています。また、「立入左京亮入道隆左記」では一段と美人で、楊貴妃の再来と呼ばれたとと書かれています。ただ、だしの美人画などは見つかってないです。
まとめ
村重が信長を裏切ってしまったことでだしは死ぬ運命を迎えてしまいましたね…。信長からしたら村重の頑なさは許せなかったそうです。それ故に残酷な処刑をしたとか。もちろん、村重はだしなど妻子が処刑されているからこそ世間から非難されることになりますけどね。彼だけは亡命しましたから。これで思うのは武士の妻は夫の決断で人生が左右されるのかなと。だからこそ、だしは村重の決断を受け入れて処刑されたのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう