どうも、りかちゅうです!定信は寛政の改革で筆頭になって動いていました。その動きが厳しすぎて周りからはどんどん疎まれることになりましたけどね。さらに、定信が追い込まれるような事件が起きます。それは尊号事件です。一見、朝廷にまつわる話ではあるものの、これが幕府に影響を与えます。なんな。あの治済に恨まれることになります。これはもう定信のピンチですね。ですので、この記事にてその話をしますね!
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尊号事件とは?
後ほど詳しいことは話しますが概要は軽く話しますね!
1.きっかけ
尊号一件とは当時の天皇こと光格天皇が実のお父さんである閑院宮典仁親王に対して、太上天皇(上皇)の尊号を奉ろうとしたことを定信が反対した件です。理由は太上天皇は皇位にあった方の尊号です。それ故に天皇陛下の父親故に奉るものではないからです。それ故に最終的には尊号については渋々ながら取り下げる形になりました。
2.徳川家斎と一橋治済に恨まれる定信
定信は徳川家斉と一橋治済に恨まれるようになります。なぜなら、家斉は実のお父さんの治済に「大御所」の尊号を贈ろうとしていたからです。定信は天皇に対して「実のお父さんだから上皇の尊号を奉るのはダメ」と言っているのだから「実のお父さんだから大御所の尊号を贈りました」はダメでしょうね?それ故に2人は定信を恨むことになります。
まあ、定信からしたら治済は自分を白河藩へ追いやった張本人と思っているでしょう。大御所なんかになられたら嫌ですよね。
尊号事件の流れ
以上が尊号事件の概要です。では、どのような経緯で尊号事件が起きたのか?
1.後桃園天皇が亡くなる
1779年10月に後桃園天皇が亡くなりました。ですが、皇嗣がまだ決まっていなかったため急きょ閑院宮典仁親王の第6皇子が後桃園天皇の養子となり皇嗣になりました。そして、1780年12月には即位式が行われのちに光格天皇と呼ばれらようになります。
2.席順に困る
その即位式で困ったのが席順でした。なぜなら、光格天皇の養父にあたる後桃園天皇が亡くなっているから実父の閑院宮典仁は親王になります。それの何が問題なのか?実は1615年に制定された「禁中並公家諸法度」によると、親王は太政大臣、左大臣、右大臣の「三公」の下に位置づけられていることです。ようするに、典仁親王は天皇の実父でありながら臣下である三公のあとに座ることになってしまいます。
だからって、「禁中並公家諸法度」は朝廷と公家を統制するために幕府が制定した法令です。変更するのは簡単ではないです。そうなると、手段としては典仁親王に「太上天皇」の称号を与えるしかないです。そうすれば席順の問題は解決します。
3.過去の前例
「太上天皇」とは上皇の通称です。となるの、天皇が譲位したのちの称号となります。過去の事例だと1221年には後堀河天皇のお父さんこと守貞親王に後高倉院と太上天皇号を贈っています。また、結局は辞退となったものの、1447年には後花園天皇のお父さんこと伏見宮道欽親王に後崇光院と太上天皇号を贈ったこともあります。
このように、前例があることだけに問題ないだろうと朝廷側は考えていたそうです。そして、
寛政元(1789)年8月には天皇の意向が文書で所司代に渡されて、幕府のもとへと伝達されることになった。
4.幕府の反対
ですが、幕府からは「慎重に評議することを求めたい」と言われました。理由は幕府側に強固に反対した人物がいたからです。それが定信です。定信はあくまでも「太上天皇」の尊号を冠するのは天皇の地位についた者のみ、という原則にこだわっていました。さらに、朝廷が挙げた2つ事例についても「いずれも承久、応仁の時の儀」で事情が違うと例外を認めませんでした。関白の鷹司輔平から「孝行心によるものだから認めてほしい」と言われるものの、定信は方針を変えることはありませんでした。
5.定信の妥協と道長の事例
ただ、定信なりに妥協はしたそうです。実は定信と輔平とのやりとりのなかで敦明親王が引き合いに出されました。道長は三条天皇を退位に追い込んで自分の孫こと敦成親王が後一条天皇として即位することになりました。ですが、皇太子には三条天皇の長男こと敦明親王が立てられることになりました。
ですが、三条天皇が崩御すると後ろ盾を失った敦明親王は皇太子を自らじたいしました。結局、皇太子には道長のもう一人の孫である敦良親王が立てられることになった。その際に、道長の配慮で敦明親王には「小一条院」という称号が与えられて准上皇に準ずる存在として経済的に優遇されることになりました。
6.折り合いがつけられない朝廷
定信と輔平とのやりとりで定信は典仁親王を経済的な面で優遇することは認めました。天皇もそれをいったんは受け入れて解決したかに見えました。ですが、光格天皇は諦めきれませんでした。1791年末に関白が輔平から一条輝良に代わると再び幕府にアプローチしました。また、天皇の周りを賛成派の公家たちで固め、先例を根拠にしながら朝廷は再び尊号宣下の実現を迫る文書を幕府に送りつけました。
7.それでも折れない定信
定信はどれだけ言われても意見を変えるつもりはありませんでした。先ほどのように先例については状況が異なるから従う必要なしというロジカルな反論を用意していました。さらに、定信はこのときに朝廷が再び回答を迫ってくることや、尊号宣下を断行してきた場合も想定して幕府内で対応を協議していました。それで、結局は定信の思惑通りに動きました。
家斎に斬られかけた定信
家斉は真っ向から正論をぶつけてくる定信に怒り狂い小姓から太刀を奪って斬りかかろうとしたそうです。
定信はこのような形で我田引水を指摘されたことになります。よほど図星だったのかも知れません。
でくが、近くに控えていた御側御用取次の平岡頼長が間髪入れずに「定信殿、上様が御手ずから太刀を下さる。速やかに拝領なされ!」と声を上げました。
白刃を抜き放ったのは見事な刀身を披露するためということにしたでしょうね。不意を衝かれて拍子抜けした家斉はそのまま定信に太刀をくれてやりました。これは平岡の機転で生命こそ助かったもののですね。
まとめ
どんな時も定信は堅物なんですね。そのせいで庶民からもだんだんと煙たがれていましたし。その皮肉狂歌なんて後世では有名になりましたし。それが裏目に出てしまいましたね。それもあって、この事件それに畳み掛けるような形になりましたね。それ故に定信は失脚のフラグが上がるのかと。その時に定信は反省するかどうかは気になりところではあります。以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう