どうも、りかちゅうです!江戸時代の後半に大噴火が起きました。この噴火は近代の噴火よりも尋常じゃないレベルです。この私でもこんな噴火を見たことないです。それを天明の大噴火と言います。浅間山が大噴火したことで幕府にも農家にも悪影響を与えました。天災とは言えども、あれは影響が大きすぎます。あれのせいで飢饉が長引いたと言っても過言ではありません。では、一体どのような文化だったのか?この記事にて話しますね!
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浅間山とはどんな山?
天明大噴火とは江戸の後半に浅間山が噴火したことを指します。ですので、まずは浅間山とはどんな山なのかについて話しますね!
浅間山は群馬県嬬恋村と長野県北佐久郡軽井沢町・御代田町との境にある標高2568mの活火山です。種類としては溶岩や火砕流、火山灰、軽石などが積み重なってできた円錐形の成層火山だそうです。浅間山は活火山のため噴火警戒レベルによって一部だけは登れるものの、基本的には登れません。ちなみに、2024年9月現在、浅間山の噴火警戒レベル2(火口周辺規制)が出されているため、現状としては登ることができません。実際にここ100年では50回以上噴火しています。そのため、噴火した時には農作物に被害をもたらすことはあります。
天明の大噴火の流れ
天明の大噴火は長きにわたるものです。1日だけで終わりではないです。ですので、ですので、これからその経緯を話しますね!
1.概要
浅間山は江戸時代になってからもたびたび噴火を繰り返していました。そのなかでも最大の噴火といわれるのが、新暦の1783年5月9日から8月5日頃まで続いた「天明大噴火」です。約90日間活発に活動したことで火の海になり火砕流・岩屑なだれが発生しました。その影響で1000人以上の犠牲者を出し付随した川の氾濫や降り積もる灰などは関東一帯を中心に多くの被害がもたらされました。
2.噴火初期
1783年5月9日に最初の噴火がありました。それから、しばらくの休止期間を経て再び6月25日に音や地響きとともに黒色の噴煙があがり火山灰が降り注ぎました。それで終わりではないです7月17日に鳴動や降灰が観測され7月21日から本格的に噴火活動が始まりました。6月まではただの初期噴火だったってことですね。7月以降の活動は激しいです。なんと東北地方まで火山灰が飛んでいます。特に7月28日の噴火の際は江戸で戸障子が振動し灰が降り注いだそうです。江戸まで灰が飛んでくるって相当の量ですね。
3.8月2日から4日までの動き
7月で終わりではないです!8月2日から3日の夜から未明にかけてはかなり激しい噴火が連続的に発生しました。もちろん、江戸にも噴火の威力がとどきました。なんなら、名古屋まで鳴動が感じられ火山雷や噴石により火の海と化しました。また、8月3日午後から翌朝にかけても連続的な噴火があり火災物が落下しました。ちなみに、その灰は千葉の銚子まで飛んだようです。
さらに、8月4日の激しい噴火では北麓に吾妻火砕流が流れるだけでなく関東中部に雨のように激しく降り注ぐ灰で空が真っ暗になりました。その影響で「闇夜のようになったので行灯をつけ提灯をともした」という記録が残されています。
4.4日から5日の夜
8月4日から8月5日の夜から朝にかけて、火山の活動は最盛期を迎えます。火柱や立ち上り空は赤く染まり火山雷が鳴り火砕物が落下しました。また、関西では地震のような鳴動が記録されているそうです。地獄絵図ですね。その時長野の軽井沢宿はパニック状態になり避難がスタートしました。
そうしているうちに8月5日の10時頃に京都や広島まで音が聞こえたという大爆発が起こりました。西日本にまで聞こえるってどれだけの大きさなのか。なんか浅間山の北側の山麓が崩壊し溶岩流が落下しました。その影響で火砕流・岩屑なだれが発生しました。その火砕流のなだれは鎌原村を埋めました。さらに、吾妻川に突入して天明泥流となり、吾妻川渓谷部の八ッ場付近にあった天然のを決壊したため大洪水が起こりました。
5.被害は江戸にまで
泥流は利根川に流れ込み利根川流域の多くの村落を流失させるのはもちろんのこと、その泥流は銚子や江戸の隅田川の新大橋、永代橋が流されています。また、この時別方面に流れ出た火砕流は群馬の芦生田集落を壊滅させています。国土交通省によると、天明大噴火による被害は死者1151名で流失した家屋は1061棟、消失した家屋は51棟、倒壊した家屋は130余棟だったそうです。
天明大噴火による被害
このような噴火のせいで日本の被害は尋常ではありません。ですので、その被害について話しますね!
1. 鎌原村は日本のポンペイに
天明大噴火で最も被害が大きかったのは鎌原村です。鎌原村はイタリアのヴェスヴィオ火山の噴火で埋まったポンペイに例えられ、「日本のポンペイ」と呼ばれています。鎌原村は約100戸が火砕流に飲み込まれ477人が死亡しました(当時村では100戸前後に570人が暮らしていたそうです)。これは村人の8割以上が亡くなったことになります。また、1980年の調査によると岩や石などからなる岩屑なだれだったことが判明しています。また、近年の発掘調査ではより詳しい岩屑なだれの流れや文献の内容の確認などがされています。
2.農作物の被害と飢饉
天明大噴火による軽石や火山灰の降下は農作物や建物に多大な被害を及ぼしました。まず火山灰は関東一円、なかでも浅間山から東~南東方向を中心に降り積もりました。また、記録によると軽石については燃えた軽石が降り注いだことによる火事が発生しました。さらに、屋根に積もった灰や石、砂の重みの影響で70軒が潰れ、65軒が大破しています。碓氷峠から新町の間には灰がたくさん降り積もった結果畑の形すら判別できなくなってしまったそうです。
そのため、田畑に降り積もった灰は農作物に甚大な被害を与えました。まず新たに苗を植えようとしても灰をどかさなければ何もできなくなりました。さらに火山灰が日光を遮ったことで、無事だった農作物も日照不足になり台無しになりました。これは最悪です。なぜなら、その当時天明の大飢饉の真っ只中だからです。詳細としては異常低温による大冷夏によりただでさえ大凶作が発生して食糧不足だったそうです。そんな中浅間山の大噴火が起きたことで天明の大飢饉をさらに長引かせることになりました。
3.洪水の発生
1786年に利根川水系で発生した「天明の洪水」です。天明大噴火の泥流による石や土は利根川の水底に降り積もりました。そのため、川が氾濫しやすくなってしまったのです。さらに、1786年の5月ごろから雨がよく降るようになり7月12日からは大雨が続きました。その影響で底が浅くなった利根川流域全体で水量が増え7月18日の午後に洪水が発生しました。なんと、江戸市中には濁流が流れ込み千住大橋などの一部の例外を除き永代橋や新大橋などの橋は次々に破壊されました。その時、利根川以外でも荒川や多摩川などの河川が氾濫して洪水が発生し江戸だけでも5000人超の被害者が出ています。
幕府の影響
天明の大噴火は幕府にも影響を与えました。一体どのような影響を与えたか?
1.一揆が起きる
天明の大噴火は天明の大飢饉にも影響を与えました。そのたて、農作物が壊滅的な被害を受けたことで深刻な食糧難が発生しました、その結果、上野国や信濃国(長野県)では中山道の馬子や人夫、農家の人たちが中心となった打ちこわし一揆が発生しました。米屋は百姓たちにより襲撃され、質屋や酒屋も被害にあったそうです。
2.新田開発がダメになる
当時の政権を担っていたのは老田沼意次です。その田沼意次は天明大噴火で飢饉が飢饉が起きたためみんなから不満を持たれます。しかも、天明の大洪水の影響で意次が進めていた新田開発が頓挫してしまいます。
どのような新田開発だったのか?田沼意次は飢饉対策の一つとして、千葉県北西部に新田開発と治水に取り組んでいました。なぜなら、利根川とつながっている印旛沼はたびたび氾濫していて治水工事が必要だったからです。そこでまず意次は下総国平戸村から検見川村の海岸までを結ぶ放水路を作り印旛沼の水を江戸湾に流そうと考えました。1782年から調査が始まった事業は天明大噴火による被害で一時中断したものの1784年から再開し作業の2月3日までは無事に終了しました。ですが、1786年の天明の洪水で水路が破壊され工事は失敗してしまいました。
3.田沼意次の失脚
意次の後ろ盾だった第10代将軍の徳川家治が1786年8月になくなりました。それを機に意次は老中を解任されてしまいました。その次に老中首座に就任したのが白河藩主の松平定信です。定信の治めていた白河藩は天明の大飢饉対策が成功し餓死者0だったといわれています。その手腕が評価されて政権運営を担うことになりました。そして、定信は老中として「寛政の改革」を進めていくことになります。ですが、彼も「白河の清き流れに住みかねて元の濁りの田沼恋しき」という川柳でディスられることになります。厳しすぎも問題ですね。
まとめ
江戸時代に浅間山が噴火したのは知っていましたがこんなに被害があった天災とは思いませんでした。これは飢饉が起きるのは当然ですね。また、群馬県と長野県で起こったことなのに江戸にまで災害が起きるという事実には衝撃を受けました。「べらぼう」でも重三郎が打撃を受けていましたもんね。ここまでくると人々の予定は狂うのは当然だと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう