どうも、りかちゅうです!「べらぼう」の主人公こと重三郎がここから苦しんでいく展開が見えてきます。理由としてはある男のある改革のせいで重三郎は出版活動が厳しくなっていくからです。重三郎の扱っているものは娯楽系だから余計にですね。そのある男とは?松平定信のことです。彼は寛政の改革で手厳しい改革をしました。田沼が恋しくなるレベルの手厳しさです。そう考えると松平定信は重三郎からしたら厄介な人ですね。では、一体どんな人物なのか?この記事にて話したいと思います!
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松平定信のプロフィール
まずは定番ですが松平定信のプロフィールから見ていきましょう!
名前 松平定信
生年月日 1759年1月25日
没年 1829年6月14日
備考
寛政の改革の人です。江戸幕府の財政を立て直したことで知られます。ちなみに、松平定信は元は田安家の人間です。田安家は一橋家、清水家と合わせて御三卿と呼ばれました。
松平定信の人生
以上が定信のプロフィールです。御三卿の家とは思いませんでした。では、彼はどのような人生を歩んだのか?
1.生い立ち
定信は1758年に田安家の徳川宗武の7男として江戸に生まれました。幼名は賢丸です。田安家は一橋家、清水家と合わせて御三卿と呼ばれました。御三卿とは徳川将軍家から分立した3家で将軍家に後継ぎがいない場合将軍候補を送り込む役割を担っていました。となると、定信は江戸幕府将軍になれる資格をがある人物でした。
とは言っても、定信が候補になれるとは限りません。詳細としては、宗武には7人の息子がいました。ですが、長男から4男までがすぐに亡くなりました。また、残された3人のうち1人は養子に出されていました。そのため、まずは5男の治察が嫡男になりました。
2.養子縁組される
7男の定信は幼少期より漢学、和歌、絵画を学び聡明さを発揮していました。幼名とマッチしていますね。
そして、田安家を継いだ治察は病弱だったのでいずれは定信が当主となり10代将軍・徳川家治の後継者になるのではと周囲は期待していました。ですが、1774年3月に定信は幕府の命により陸奥白河藩主松平定邦の養子となることが決まります。その時定信は17歳の青年でした。なんでそうなったのか?それは徳川一門から養子を迎えることで白河藩の家の格を上げたかったからだそうです。
3.将軍の道を拒まれる
この養子縁組には複雑な問題が関わっていました。田安家を継いだ治察は1774年の7月病にかかり翌 8月に22歳の若さで亡くなってしまいました。さらに、治察には子どもがいなかったので田安家からは定信を戻して相続させるしかありませんでした。ですが、それを幕府は認めませんでした。これは田沼意次の策略だったのではと言われています。意次は優秀な定信が将軍になることを恐れていたのかもしれません。まあ、その真相は定かではないです。ただ、定信は意次によって将軍への道を阻まれたと理解はしているそうです。
4.天明の大飢饉で評価を得る
実家の田安家へ戻れなかった定信は1783年10月に松平家の家督を継ぐことになります。その時は天明の大飢饉の最中でした。ですが、定信は手腕を発揮しました。まず家臣や領民に質素倹約を徹底させるだけでなく自らも贅沢を禁じ救い米や塩、味噌の支給など飢饉対策をしまさな。また、農民に荒地の開墾による作物の増産を命じるなどして難局を乗り切りました。その結果、名君としての評価を得ます。
さらに、定信は1785年に意次に近づき溜間詰という将軍や老中と政治的な相談をすることもある立場に準ずる扱いになりました。これは白河藩にとって破格の処遇でしたが意次糾弾を考える定信にとっては野望の始まりでしかありませんでした。
5.老中になれると思ったが…
1784年に殺害事件で意知を失った意次のダメージは大きく求心力の低下は防ぎようもない状態でした。また、財源確保のために打ち出した改革も失敗し意次の政治的責任を問う声が幕府内から出るようになりました。そして1786年8月に将軍家治が病に倒れて亡くなると意次は老中辞職を余儀なくされます。意次の失脚を受けて御三家は定信を老中へと推挙します。ですが、この時は反対派によりダメでした。
6.ようやく老中になる!
徳川家治の死で1787年4月に徳川家斉が将軍ななりました。ただ、彼はまだ14歳という幼い年齢だったため老中を誰にするのか激しい政争が繰り広げられました。また、米価高騰が改善しない事態にいらだった民衆によって米問屋の居宅や蔵が打ちこわされる騒動が起きました。そのため、家斉は激怒して定信の老中起用を反対していた御側御用取次の家臣を罷免しました。これによって定信は老中の首座になります。
7.厳しい改革を!
30歳の若さで老中首座となった定信は米価の安定と社会の引き締めのたまに改革を進めていきます。まず、定信は尊敬していた吉宗を参考に質素倹約に努めると共に幕府の歳出にも目を光らせます。なんと大奥の経費は3分の1に減らすという徹底ぶりでした。他には社会政策として1789年に棄捐令を出して札差などの金融業者に借金を重ねて困っている旗本・御家人を救うことにも着手しました。1790年に隅田川河口の石川島に人足寄場を設置し無宿人や刑期を終えた者などの自立を支援するために技術を学ばせました。このような改革は寛政の改革と呼ばれることになります。
8.黄表紙などの文化物にも規制を
定信の改革は高価な菓子の製造は中止、女性の衣類も豪華な織物や染物は禁止と、民衆の日常生活にまで規制を行いました。そのため、定信のことを歓迎していた世間もは次第に息苦しさを感じ始めます。「白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という川柳が流行りました。田沼の方が文化的なことは緩かったですもんね。
さらに、田沼時代の自由な風潮の中で流行した遊郭を小説の主題とした洒落本や、極彩色を用いた錦絵も、定信は取り締まりの対象としました。なんなら、その規制は黄表紙、狂歌本、浮世絵の出版にまで至りました。そのため、版元として成功した重三郎は民衆の不満を感じ取り黄表紙で改革を茶化す作品を発表します。もちろん、ベストセラーとなりますが、定信は政治批判する出版物を見過ごすことはできませんでした。そのあめ、幕府の批判をした執筆者たちは活動を自粛しました。中には謎の死を遂げる者まで出る有様でした。もちろん、重三郎も見せしめとして幕府から処罰を受けることになりました。
9.やり過ぎで失脚
定信は信念を持って改革を続けたものの、武士から庶民にいたるまで倹約を進めたため人々は不満を募らせるようになっていました。そんな中、徳川家斉との対立を生む出来事が起こります。実は尊号一件と呼ばれる事件が起こった時と同時に幕府にも似たような事態が勃発したのです。徳川家斉が父の一橋治済にの尊称を贈ろうと考えたのです。隠居した将軍の尊称を将軍に就任していない治済に贈るのは異例のことです。これは定信としては認めることはできませんでした。このことをきっかけに、定信と徳川家斉は対立するようになりました。そして、1793年に徳川家斉より老忠首座の辞職を命ぜられて失脚することとなってしまいます。
10.その後は文化事業をする
定信が失脚したのはまだ36歳です。その後なにをしていたのか?実は定信は元々幼少期から絵画などに触れていたことから定信は文化に理解が深く後生に貴重な資料を残す働きをしました。1806年に定信は「近世職人尽絵詞」を製作します。大工、屋根葺職人、畳職人な、職人の風俗のほか、庶民の生活が描かれています。そのため、江戸の職人の実像を知る貴重な資料となっています。「近世職人尽絵詞」は上、中、下の3巻で構成され文章はそれぞれ大田南畝、朋誠堂喜三二、山東京伝が担当しました。いずれも寛政の改革では要注意人物の扱いを受けた者です。ただ、この時期の定信は政治には関わっていなかったので3人に協力を求めたんでしょうね。また、この作品以外にも吉原をテーマにした作品の文章を京伝に依頼しています。
11.最期
定信は53歳の時に長男に家督を譲って、茶会や歌会などを楽しみ70歳で生涯を終えました。厳しい改革を進めている時は文化に対して鬼な対応をしていました。ですが、本心は文化に親しみながら過ごしたいと思っていたのかもしれませんね。
私の好きな川柳
「白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」は私の好きな川柳です。確かに、どんなことであれ、正義や清いことはいいものと言われています。ですが、あまりにその度が超えてしまうと反対に悪になってしまいます。なんなら、悪さしているような雰囲気の方がマシとなってしまうのかと。このように、あまりに正しいことを振りかざすのは人の心を苦しめるのかと思われます。この私は悪さばかりしてるからそう思いますね。
まとめ
定信が文化に携わっていたのは驚きでした。となると、改革時代は状況が大変だったからこそお金を節約しないといけないって思いで一心だったんでしょうね。その時の本音も気になるところですが。あと、意次に対するヘイトに関しては「べらぼう」での見どころだと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう