どうも、りかちゅうです!田沼意次という人物は分かりますね!江戸の三代改革の1人ですからね。それで、今回話すのはその息子の意知のことです。意知はあまり知られてないものの、お父さんと共に改革の実行をしていたそうです。ですが、ある時殺害されて亡くなってしまいました。しかも、若い時に殺されました。何があったのと思いますね。ですので、この記事にて話したいと思います!
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田沼意知のプロフィール
田沼のプリンスは意次の意志を継ぐかと思いきや殺されてしまいました。では、彼は一体何者なのか?
名前 田沼意知
生年月日 1749年
没年 1784年5月20日
備考
田沼意次の息子です。意知は田沼時代の政治を支えました。ですが、1784年に江戸城中で佐野政言による刃傷事件に巻き込まれ36歳で命を落とします。
田沼意知の人生
以上が意知のプロフィールです。こんな結末になってしまったの残念ですね。「べらぼう」なら誰袖ちゃんが悲しみますね。では、その結末に至る経緯を知るためにも彼の人生を見ていきましょう!
1.生い立ち
意知は1749年に田沼意次と旗本で鉄砲方を務めていた黒沢定紀の娘の子として生まれました。幼名は竜助でした。彼は嫡男と言われています。とは言っても、意次はまだ旗本ではありますけどね。
ですが、あるきっかけで意次は出世します。実は意知が生まれて5歳の頃でもある1754年に美濃国郡上藩で郡上一揆という大規模な百姓一揆が起こります。その際に郡上一揆の評定こと裁判に田沼意次の出席も命じます。ただ、評定所の構成員は大名でなければ出席できません。そこで、田沼意次を評定所に出席させる為に領地を増やさせ田沼家は遠江国相良1万石の大名となりました。
このように、意次は出世したため意知は大名の子になりました。
2.田沼意次の出世
9代将軍徳川家重が亡くなり、将軍を継いだのは家重の子こと徳川家治です。田沼意次は家治からの信任も厚いためどんどん昇進しました。なんと、田沼意次は1767年には御側御用取次から側用人へと出世し領地も増えます。その側用人という役職は将軍側近に近侍し機密に預かります。これは相当信頼されてますね。
3.意知も出世する!
親も出世するなら息子の意知も出世します。意知は19歳になった時に従五位下・大和守に叙任されます。意知は幕府官僚かつ大臣となるべく華々しいスタート位置に立ちます。
その後、意知は意次の全盛期である1781年に奏者番に就任し、1782年には山城守の官位を授けられます。それから、1783に意知は若年寄に昇進し意次とともに幕閣の要職を占めました。ちなみに、意知さ廩米五千俵を与えられたそうです。これは権勢の強さを物語っています。
4.江戸城中で斬られる
順調に出世してるかと思ったらある事件が起きます。1784年3月24日に意知は江戸城から他の若年寄らと退出しようとしていたところ新番士の佐野政言に突然斬りつけられるという事件が起こります。その時に負った深手の傷がもととなり4月2日命を落とします。36歳の若さでした。この事件を田沼意知殺傷事件と言います。詳しいことは後ほど話します!
田沼意知殺傷事件とは
このように、意知は殺害という形で亡くなりました。では、なんで彼はそんな末路になったのか?その話をこれから詳しく話しますね?
1.事件の概要
1784年3月24日の夕方に意知は殺傷されました。場所は江戸城本丸御殿の中の間です。刺したのは当時24歳の佐野政言です。にしても、なんで佐野政言は意知を殺そうとしたのと思いますよね?佐野政言は意知への私怨による乱心と言われています。
2.私怨の内容
佐野政言は新番という将軍出行の際に先駆け警護をする職務でした。また、佐野家と田沼家は本家と分家という関係だったそうです。それなのか佐野政言は意知が佐野家から過去帳を持ち出して返さない、出世を目論んで意知に金品を贈ったのに叶えてくれていないなどいろいろ恨んでいたと言うのです。
2.意知の傷
意知は肩などを切られましたが即死ではなく8日後の4月2日に亡くなりました。佐野政言は確実に意知を殺傷するため刀にトリカブトの毒を塗っていたのを医師が見抜けず死因は傷口に毒がまわってしまったそうです。
3.佐野政言の末路
佐野政言は揚座敷という高位の旗本や僧侶などを収容する施設へと送られて改易となり4月3日に切腹を命じられました。
暗殺は私怨だけではない?
私怨で殺されたとされる田沼意知です。ただ、実は組織的な「暗殺」だった可能性もあるそうです。もちろん、田沼意次・意知親子には反対派もいました。そのため、誰かしらがどちらか狙っていてもおかしくないです。その際に意知がターゲットとなりました。理由は意知は年が若く、将来が期待されていたからです。意知は開国政策を推し進め、経済的に日本を豊かにできるだけの才覚があったらしいですしね。そのため、反対派は早く倒さなければならないと考えそれが決定されると、佐野政言が進んで実行しました。
要するに、意知の死の真相はただの私怨ではなく田沼親子の反対派による暗殺だった可能性も高いということです。
その後の田沼家
意知が暗殺されたのを転換点に陰りを見せ意次は失脚しました。それ以降、田沼家は意知の長男こと田沼意明が継ぎ陸奥下村藩1万石に転封されました。それから、意知の子供たちが相次いで若くして亡くなったため田沼意次の4男田沼意正が田沼家を継ぎます。田沼意正は田沼家中興の主となります。最終的に田沼家は1868年に駿河国静岡藩が立藩された影響で上総小久保に転封され明治を迎えました。
まとめ
私怨なのか組織的な殺害かどっちなのか、それともどっちもなのか。そこら辺は掴めないところですが少なくとも悲しい結末ではありますね。このようなことを踏まえると、あの時代は派閥があったからこそ命の奪い合いはあったのかなと思われます。また、「べらぼう」だとこの殺害は誰袖ちゃんがどんな感じで悲しむのかが見どころとは思っています(あんなに意知のことが好きならば泣き崩れでしょうね)。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう
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