どうも、りかちゅうです!秀吉は百姓出身のため一般的な武将のようにずっと前から家臣がいたってわけではなかったです。ただ、秀吉が下っ端時代から秀吉の家臣をやっていた人物がいます。その名前は蜂須賀正勝です。彼は主君がコロコロ変得ざる得なかった人生でした。ですが、そんな彼の生き方を変えたのが下っ端時代の秀吉です。2人は古くからの仲だから親友みたいな感じでした。このように、蜂須賀正勝と秀吉には絆や歴史があります。ですので、この記事にて蜂須賀正勝について話しますね!

蜂須賀正勝のプロフィール

正勝は秀吉の古参家臣であるものの有名ではないです。ですので、彼のプロフィールから見ていきましょう!

名前 蜂須賀正勝

生年月日 1526年

没年 1586年5月22日

備考

秀吉が下っ端の時からいた家臣です。彼ほど古い家臣はあるのかレベルです。

蜂須賀正勝の人生

 

1.生い立ち

正勝は1526年に尾張国海東郡蜂須賀村(今の愛知県海部郡美和町)で生まれたそうです。秀吉が1537年かその前年あたりの生まれとされているので一回り近く勝正の方が年上ってことですね。蜂須賀家は尾張守護の斯波家の末裔ともされます。その後、斯波家に対して下剋上した織田弾正忠家(信長の家)に正勝が仕えることになります。一方で勝正のお母さんについては出自がよくわかっていません。

2.若い頃の正勝

若い時の正勝は木曽川周辺で自らの党を築き上げていたとされます。小説等で正勝が「山賊の親分」といった表現をされていることが多い理由はここからかと思われます。それから正勝は美濃の斎藤道三、岩倉織田家、尾張の犬山織田家信清に仕えました。ですが、3人とも亡くなっています。

詳細としては斎藤道三は1556年に長良川の戦いで戦死、織田信賢は1559年に信長に敗れて逃亡、織田信清は永禄1564~1565年に信長に敗れて甲斐へ逃亡しています。主君運に恵まれなかったんですね。

3.秀吉との出会い

「武功夜話」によると秀吉のお父さんこと弥右衛門は正勝のお父さんこと正利の配下であったことがあったそうです。しかも、秀吉は年少の時分に正勝に仕えたという説まであります。それ故に秀吉はその縁で正勝と信長とを橋渡ししたのではないかという説もあります。あとは矢矧川の橋にて、蜂須賀勝正と秀吉が出会ったという逸話が有名ではあります。まあ、いずれにせよ秀吉との出会いのおかげで正勝は秀吉の家臣となるのは事実です。

4.秀吉の出世に貢献する

1566年に美濃斎藤家との戦いで秀吉は大手柄を立てました。その時に蜂須賀正勝の活躍が知られるようになりました。内容は墨俣城築城です。秀吉はこの築城には数名の土豪衆や正勝に助けてもらいました。その際に正勝は木曽川近辺に顔が利いていたから材木の調達や輸送がスムーズにできたそうです。この活躍で正勝は秀吉が墨俣城の守将とされた後も与力として付けられました。

また、正勝は主に斎藤家を調略する案内役を務めたことで信長から褒美として50余村及び500貫を与えられました。

5.上洛戦でも活躍!

正勝は1567年の稲葉山城攻略、1568年9月に始まった信長の上洛戦こと近江六角攻めに秀吉と共に参戦しています。そして、正勝は1569年には京都奉行となっていた秀吉の代官として京の警備に従事しました。その際に二条城の火災が起きたものの、正勝が迅速な鎮火により足利義昭から桐の紋入りの羽織を贈られたといそうです。

6.金ヶ崎の退き口と城の在番

1570年4月に信長は浅井長政の裏切りに遭ったことで秀吉が殿を務めた金ヶ崎の退き口で正勝は秀吉軍の将として活躍しました。そして、1570年6月に起きた姉川の戦いにも参加していたそうです。

姉川の戦いの後、秀吉が近江横山城の城主となると、正勝は在番に任じられました。在番とは一時的な城主のようなもので、秀吉外出中の留守を任された感じです。

7.一向一揆で一番槍の手柄を立てる

1574年織田軍は長島一向一揆の討伐に出向きました。秀吉はこのころ北近江に残って越前方面を牽制していました。そのため、秀長と正勝が長島攻めに駆り出されています正勝は箕浦城の救援や天王寺合戦では、一番槍の手柄を立てる活躍を見せました。さらに、多数の一揆勢を討ち取り勝利に大きく貢献しました。そのため、正勝は秀吉と信長から褒美を貰いました。

8.中国攻めにも参戦!

1577年の秋な秀吉が中国攻めに取り掛かる時に正勝は参戦しました。その際に息子の家政とともに従軍したそうです。特に、1578年から1579年1月にかけて取り掛かった三木城の攻略とそれに続く続く大村合戦では小早川勢を撃退しまた。それだけでなく00余の首級を挙げるなど兵糧の強奪にも成功しました。

また、1580年の広瀬城攻略戦では蜂須賀親子が城主の宇野重清を討ち取った、或いは捕えたため、正勝は広瀬城の城主となり家政は月毛の名馬を与えられました。それから、播磨平定後に秀吉は姫路城を本拠とするようになったとき正勝はそ播磨龍野城5万3千石を拝領します。

9.本能寺の変の山崎の戦い

1582年6月な本能寺の変が起きました。秀吉は6月3日に既に本能寺の変のことを知っていました。その時に各方面への機密保持を担当したのも正勝であった。また、6月13日に起きた山崎の戦いで中断していた毛利との和睦による国分を担当したのも正勝と官兵衛だったそうです。そのおかげで、山崎の戦いで秀吉は明智光秀に勝ったんです!

10.小牧・長久手の戦い

1584年に起きた小牧・長久手の戦いでは正勝は大坂城の留守を任されていました。なぜなら、大坂城を任されたのがそこが非常に重要な拠点だったからです。特に、南に位置する紀伊の雑賀衆などが徳川方に味方していました。実際に、雑賀衆と根来衆が大坂に迫る勢いだったそうです。それを正勝が出陣して対処しています。

11.四国攻めと晩年

1585年に四国の戦国武将こと長宗我部元親の攻略にも参加しました。実は正勝はすでに病に蝕まれ始めていたそうです。ですが、長宗我部元親との取次を務めていた正勝は四国行きをキャンセルするわけにはいきません。ただ、滞陣中から無理をしていたようで帰還後は床についてしまいました。そして、正勝は1586年5月22日に亡くなりました。享年61です。

正勝のエピソード

以上が正勝の人生です。秀吉の古参家臣であるからこそかなり秀吉は彼のことを信用していますね。また、しごできでもあります。ですので、その一面について話しますね!

1.正勝の立ち位置

豊臣家の家臣団の中で正勝が占めた位置は筆頭家老級れべる。1584年頃、正勝が豊臣家中の老臣筆頭格となったと伝えられ、大坂城近くの楼岸に屋敷を与えられたそうです。また、正勝が家督を家政に譲った後も中央政権の中枢近くにとどまり、秀吉の側近として政務・軍略に関わり続けていたそうです。正勝は秀吉からしたら若い頃から一緒に乗り越えてきた「何を任せても裏切らない古参」です。そのため、政権が大きくなるほど正勝の存在価値は増していきました。

2.器用な正勝

正勝は武勇・普請・交渉の三つの分野をバランスよくこなしていました。まず、金ヶ崎の退き口や姉川の戦いなどで見せた堅実な戦い方は秀吉軍の生存率を高める実戦的なやり方でした。次に墨俣周辺を含む築城や普請、木曽川筋での動員と輸送は大規模戦略の足腰を支える仕事でした。そして、最後に備中高松城の和睦交渉など戦を終わらせる場面での交渉役でも活躍していました。現代的に言えば正勝は「現場指揮」「インフラ整備」「利害調整」を一人でこなせる側近でした。

まとめ

正勝の名前は聞いたことはありました。蜂須賀なんて苗字は珍しいから尚更覚えられましたね。ただ、詳しいことは今回を機に知りました。調べてみて思ったのは彼は個人的には戦上手というイメージがあったのでそれ以外のこともこなせるなんて思ってもなかったです。だからこそ、もっと注目されてもいい武将なのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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