どうも、りかちゅうです!秀吉は天下統一目前の時に茶会をしました。その名前を北野大茶湯です。しかもこの茶会は一般庶民も参加可能でした。その当時の茶道は上の立場の人たちじゃないとできないものでしたからね。その常識を覆したことになります。ただ、その茶会ですがなんと10日やる予定だったのに1日で終わってしまいました。大胆にやるものが思ったよりもですね。一体どんな茶会だったのか?この記事にて話しますね!

北野大茶湯とは?

北野大茶湯とは秀吉が天下を取る直前の茶会です。庶民も参加OKでした。一体どういう茶会だったのか?

概要

北野大茶湯は天下統一を目前に控えた秀吉が自身の権威を示すために開いた前代未聞の大茶会です。この茶会は1587年10月1日に京都の北野天満宮を会場に武士・公家だけでなく町人や農民まで参加できました。参加条件は釜・茶器などの茶道具(なければ代替品でも可能)を持参すれば誰でもOKでした。参入が思ったよりも低いなんて前代未聞です。かんなら秀吉が事前に出した「触書」では参加できなかった者は今後茶の湯を行うことを禁じるとまで書いてたらしいです。ガチすぎですね。ちなみに、会場には「天下三宗匠」こと千利休・津田宗及・今井宗久がいました。さらに、秀吉自慢の名物茶器や黄金の茶室まで披露されました。

北野天満宮とは?

京都市上京区にある神社です。「学問の神様」として有名な菅原道真を祀っています。北野天満宮は広大な松原が広がり大規模なイベントを開くのに適した場所でした。そのため、秀吉は天皇のお膝元の京都で「天下人の威光」を見せつけるのにこの神聖な場所をあえて選びました!

北野大茶湯は3回目の茶会

実は秀吉はその前に「権力演出のための茶会」を2度行っており、北野大茶湯はその3段階目・最終形として位置付けられるイベントでした。では、どういう茶会だったのか?

1.禁中茶会

1585年関白に就任した秀吉は、宮中で正親町天皇に茶を点てる「禁中茶会」を行いました。茶頭を務めたのはあの千利休です。この茶会で秀吉は「天下人が天皇のお墨付きをもらった」という政治アピールしました。

2.大阪城茶会

秀吉は自身の大坂城に諸大名を集めて茶会を開きます。ここでは黄金の茶室を披露し「秀吉の財力と権威」を武家社会全体に見せつけました。これは家臣を統制するための「内向きの権力演出」でもありました。

3. 北野大茶湯

そして3段階目が、この北野大茶湯です。1587年の春には九州征伐では島津家を降伏させ秀吉は天下統一が目前に見えてきたタイミングとなりました。そこで、秀吉は身分を問わず庶民まで巻き込むことで天皇から農民まで全ての日本人が秀吉のもとに集うという壮大なイメージを演出しようとしたのです。

北野大茶湯の当日の流れ

当日はなかなか豪華です。では、どんな感じだったのか?

1.センターは秀吉で両脇に天下三宗匠

1587年10月1日な北野天満宮の境内と松原には、4つの茶席が設けられました。センターには秀吉、両脇には千利休、津田宗及、今井宗久という天下三宗匠と呼ばれた茶人たちが陣取っていました。もちろん、当日の中心人物はなんといっても千利休でした。千利休は秀吉の茶頭として茶会全体を取り仕切る総合プロデューサーの役割を担いました。そして、津田宗及と今井宗久という堺の豪商出身の茶人も同席しました。

2.黄金の茶室

北野大茶湯で秀吉が誇る黄金の茶室を披露しました。その茶室には柱・壁・天井のすべてに金箔が貼られ畳表には鮮やかな深紅色の猩猩緋が用いられ、縁には萌黄地金襴という豪華絢爛なつくりでした。しかも、組み立て式で解体して持ち運びができる茶室でした。これは当時としては画期的な「移動式茶室」でした。秀吉はこれを大坂城・聚楽第・北野天満宮など行く先々で組み立てて自慢の道具として披露したそうです。

3.参加者の席はくじ引きで

茶席は秀吉・千利休・津田宗及・今井宗久の4名がそれぞれ担当ししました。一方で参加者はくじ引きで席を決める方式でした。これは、たとえ農民であっても運次第で「天下人・秀吉のお点前」を直接いただけるという破格の演出でした。

ちなみに、吉田神社の祠官の吉田兼見の日記「兼見卿記」などの記録によると4席の茶頭からお茶を受けるためにくじを引いた人数は803人だったそうです。さらに、境内の松原にも1500人そどの一般の茶席が設けられたそうです。となると、実際の参加者は数百から数千人規模と推測されます。

実は1日で打ち切りに?

このように大胆な茶会でした。なのに、北野大茶湯の最大の謎は当初10日間の予定がたった1日で打ち切りになったことです。秀吉自身の触書にちゃんと「10日間続ける」と明記してあったんです!なのに、まさかの1日でおしまいです。

打ち切りの理由

この打ち切り理由に関しては実は史料にもはっきりした理由は記されていません。ただ、一応説はあるので一部の説を紹介しますね!

1. 九州一揆勃発説

もっとも有名な説がです。北野大茶湯と同じ1587年に九州征伐後に肥後国で佐々成政統治に対する大規模な一揆肥後国人一揆が発生していました。茶会の最中にその急報が届き秀吉が中止を決断したそうです。とは言っても、肥後一揆そのものは7月から始まってはいます。となると、茶会のさなかに突発的に起きた事件というほどの緊急性があったかどうかは微妙です。ただ、北野大茶湯が中止になった後に秀吉は九州の博多商人たちに対して博多の地で代替茶会を開くと約束したと伝えられています。これは九州征伐の報酬を兼ねた政治的配慮だったと考えられています。

2. 集客失敗説

秀吉は10日間で数千〜数万人規模の参加を見込んでいたとも言われています。ですが、秀吉席のくじを引いた人数は803人にとどまりました。天下人の威光を見せつける目的で開催したのに、想定より人が集まらなければプライド的に意味がないです。そこで、秀吉は失敗を悟り傷口が広がる前に1日で打ち切ったのではないかと言われています。

3.1日で十分説

この茶会の本当の目的は天下人として身分の上下なく茶会を開催したという事実を作ることです。そのため、1日でも開催した実績ができればその後の豊臣政権のブランディングには十分なため10日間続ける必要はなかったという解釈もあります。

その後の千利休と秀吉

北野大茶湯のあと秀吉と千利休の仲が悪化していくことになってしまいました。何があったのか?

1.地位が不動なものに

北野大茶湯は千利休にとって人生のピークでもありました。千利休は茶会全体を取り仕切ったことで秀吉から3000石の領地を与えられたとされていたす。これは茶人としての地位は不動のものになります。ですが、この絶頂期からたった4年後の1591年に千利休は秀吉の命によって切腹に追い込まれてしまいます。

2.4年間に何があったのか

1587年の北野大茶湯から1591年の千利休切腹事件までの4年間で秀吉と千利休利休の関係はたまんだんと悪化していきました。その理由は色々あります。まずは茶の湯観の違いは大きいかと。秀吉は派手にやるものの、千利休は質素で簡素なわび派でした。それだけでもないです。大徳寺山門に置かれた千利休の木像問題や高麗茶碗などの茶道具の値段操作疑惑などもあります。とにかく色々対立したことで千利休は切腹に至りました。

茶道と権力

北野大茶湯は戦国時代の「茶の湯と権力」が密接に結びついた事件となりました。まあ、茶人が天下人と同じ舞台に立てるほど影響力を持っていたことにはなりますからね。ですが、これは裏返せば「天下人の機嫌1つで失脚もありうる」という危うさもあるということにもなります。それを示したのが利休の切腹です。

まとめ

天下統一をして民にも平和をという意味を込めて北野大茶会は庶民を参加OKにしたそうです。それなのに、意外と人が来なかったらしいですが。まあ、何かしらお茶関係のを持ってこないといけないから参加できない人もいたでしょうけどね。とは言えども1日だけでもアピールできたとは言えどもという点はあるのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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