どうも、りかちゅうです!タイトル的にどういうこととなる方もいますね。実は平沢常富という武士がいました。その人は仕事上吉原に通っていました。そしたら、気づいたら文化人になっていた人です。その際に平沢常富は朋誠堂喜三二と名乗って活躍しました。ちなみに、彼は。黄表紙や洒落本などの戯作で活躍したそうです。なんか武士から文化人として活躍するってレアですね。一体どのような経緯で彼は文化人となったのか?この記事にて話しますね!

朋誠堂喜三二のプロフィール

どっちで名前を通そうかと迷いましたが「べらぼう」で出てくる人物だから喜三二で通しますね。まあ、とにかく、彼のプロフィールを見ていきましょう!

名前 朋誠堂喜三二

本名は平沢常富です

生年月日  1735年5月13日

没年 1813年6月18日

備考

仕事で吉原に行ってたら文化人になった人です。アラフォーになってからは文化人として生きていた人です。ちなみに、彼は重三郎とともに仕事をしたことあります。

朋誠堂喜三二の人生

以上が喜三二のプロフィールです。どうやって武士から文化人になったんだよと思いますね。ですので、彼の人生を見ていきましょう!

※彼の場合は作った作品が多いです。そのため、ほんの一部しか紹介できないです。

1.生い立ち

喜三二は1735年に西村平六久義の三男として江戸で生まれ昭茂と名付けられました。お父さんはは幕府の旗本で寄合衆だった佐藤三四郎豊信に仕えていました。

西村家ではお父さんが歌舞伎好き、お兄さんはは狂歌好きだったそうです。このような環境だったため喜三二は10代前半の頃俳人の古来庵馬場存義の元にお父さんと通っていました。その際、喜三二は義秀という俳号を使ってました。ちなみに喜三二は平沢家に養子に行った後も存義のところに通っていたそうです。文化とのご縁があったのは10代からなんですね。

2.平沢家の養子になる

11748年に喜三二のいとこが平沢常房に嫁いだことから平沢家の養子とかり平沢常富となりました。平沢家は兵法三大源流の一つでもある陰流の流祖こと愛洲移香斎久忠の末裔です。それから移香斎の息子こた愛洲小七郎宗通が常陸の佐竹氏に仕えるようになってから平沢村を領地をもらいました。そこから平沢姓を名乗るようになりました。それで、喜三二はその四代目の在通の次男こと常善から分かれたた家系にて養子になりました。

3.秋田藩士の喜三二

平沢家に入った喜三二はまず藩主の佐竹義真の小姓をしました。それから、1754年に近習役、1766年に養父が亡くなったことから家督を継ぎ、1768年には佐竹義敦の刀番になりました。そして、吉原とご縁のある役職に就きます。喜三二は1778年に留守居助役に1783年に留守居本役につきました。留守居役とは藩の外交を担う重職です。その際に吉原が社交の場で使われたそうです。となると、喜三二は仕事で吉原に通ってたことが分かりますね。

4.当時の秋田藩

喜三二が秋田藩士として活動していた時、秋田藩は金銭的に非常に困窮していました。有名な佐竹騒動が起きたのもこの時期です。また、藩主毒殺ともいわれています。このような騒ぎの影響で40人が切腹などの処分をうけることになります。そんな中、藩士としてやっていけるってことは喜三二は仕事ができるのかもしれませんね。そうじゃないと文化的な活動と両立できませんから!

4.文化人デビュー

喜三二が金錦佐恵流の名で「当世風俗通」という洒落本をを書きました。そして、喜三二が江戸にちゃんとデビューするのは安1772年に30代後半の時です。どのように彼は文学的素養を身につけたのか?まず1766年に喜三二は俳人の雨夜庵山本亀成に入門します。その際に喜三二ら雨後庵月成、朝東亭などで活躍していたそうです。

5.戯作者としても活躍する

1769年の吉原細見の「登まり婦寝」、1770年の「和歌三鳥」の序は喜三二が書いたそうです。そして、1772年に洒落本「当世風俗通」を書きます。その際に挿絵を担当したのが恋川春町です。春町は喜三二より10歳ほど年下です。ですが、喜三二にとっては盟友ともいえる存在でした。そのため、1774年に春町は「金々先生栄花夢」で黄表紙というジャンルを確立するとともに大ヒットを飛ばしました。

 

6.松平定信の皮肉を書く

1786年に田沼意次が失脚し松平定信による寛政の改革が起こりました。これは文化人にとっては悲しい話です。なぜなら、松平定信は文化的なことに規制をかけたからです。それだからこそ、

1788年に喜三二は重三郎の元で「文武二道万石通」を出しました。この作品は鎌倉時代を舞台にしています。ですが、内容は松平定信に対する皮肉を描いています。

そんな作品だから大ヒットします。ですが、内容から絶版となります。松平定信からしたら激おこですよね。また、藩主の佐竹公より叱責を受けそれ以降戯作からは手を引くことになります。

7.再び藩政をする

喜三二は佐竹公から怒られたものの、幕府からのお咎めはありませんでした。ですが、喜三二さ戯作からは身を引くことになりました。とは言えども、謹慎していたわけではなく藩政の重臣として業務に励みました。まず、1792年には幕府から秋田藩に命じられた土木工事の割り当てをしました。その成功で幕府から錦帛を拝領しています。

8.晩年

1794年喜三二は女御入内奉賀のため京都に派遣されています。また、1801年、喜三二が60代半ばを超えても幕府の土木工事の御用を務めています。ただ、1805年に引退し1813年に70代後半で亡くなりました。

重三郎との関係

もちろん2人は関係あります!ですので、その関係も話しますね!

1.2人の出会い

「親敵討腹鞁」の版元を担ったのは重三郎のライバルこと鱗形屋孫兵衛です。ですが、喜三二は吉原を通っていくうちに重三郎と出会い意気投合しました。それから1777年に喜三二は重三郎のもとで洒落本「娼妃地理記」を出版し蔦屋重三郎の看板商品だった「吉原細見」でも喜三二が序文を担当するようになりました。

2.喜三二のが重三郎をフォローする

重三郎の最大のライバルだった鱗形屋孫兵衛が他社の本を無許可で複製・出版する事件を起こしたことから孫兵衛は吉原から引退します。その際に重三郎の躍進を支えた作家の1人が喜三二でした。喜三二は見徳一炊夢」や「文武二道万石通」などのヒット作を連発しました。これは重三郎を江戸のメディア王へ押し上げる要因となりましたね。ここら辺も「べらぼう」で描かれそうですね。

まとめ

何度も言いますが私は江戸文化には疎い人間です。あんな教育の仕方したら江戸文化の魅力なんて分からないまま終わっちゃいますよ。それくらい詰め込みな感じでしたから。これは分かる人には分かるでしょう。

まあ、そんなことはさておき、疎いからこそ藩士という武士でもあり文化人でもある喜三二という人物がいたのは新鮮味を感じましたね。藩政もこなしながら文化作品をヒットするとは何者と思います。家庭環境から文化的なものに触れていたとは言え器用だと思います。寛政の改革の時にまた藩政を頼まれていることが答えですね。もし器用にやれてなかったら藩主は頼みませんからね。このようなことを踏まえても、私的には喜三二は「何者なのだ、お主は?」と思う存在ではあります。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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