どうも、りかちゅうです!十兵衛こと明智光秀が違う形で登場してきましたね。逆に豊臣秀長をテーマにした大河ドラマで十兵衛が出ないのは事件ではありますがwwwwwww。まあ、そんなことはさておき、十兵衛が登場してきたことで「麒麟がくる」を思い出しました。あの大河ドラマはだんだんと面白くなる話だなと思いましたね。話を脱線するなって?申し訳ございません。とにかく、十兵衛が再登場したからこそこの記事にて彼のことを書きますね。

明智光秀プロフィール

彼といえば本能寺の変ですね。ただ、それ以前のことはあまり知られてないと思うのでそこら辺のプロフィールから見ていきましょう!

名前 明智光秀

※通称十兵衛です。十兵衛は室町時代の中頃から見えるようになる通称(仮名)のパターンで、百官名という種類の通称です。

生年月日 1528年3月10日

没年 1582年7月2日

備考

本能寺の変で信長に謀反を起こした人であり2020年の大河ドラマの主役でした。「麒麟がくる」見ても分かる通り彼は以前は道三に仕えたり足利義輝に仕えたりしてました。

 

明智光秀の人生

実は十兵衛なんですが信長に仕えたのは人生の後半くらいからです。では、一体信長に仕えるまでどんな経緯があったのか?

1.生い立ち

十兵衛はは1528年に生まれているという説があります。お父さんは道三に仕えていた明智城主明智光綱で、お母さんは若狭国守護の武田義統の妹ことお牧の方であると言われています。明智光綱は十兵衛が幼いころに亡くなっています。それ故に代わりに伯父の明智光安が明智家の家督を継ぎました。ですが、道三と斎藤義龍の内紛により明智光安は命を落とし1556年に明智城は陥落しました。十兵衛はアラサー頃に国を追われ流浪の身となってしました。

2.足利義輝に仕える

十兵衛は色々あって朝倉義景に仕えました。ただ、約2年の空白期間を経て朝倉家のもとへ渡っています。この空白期間は何をしていたのか?説はありますが諸国を放浪し鉄砲の使い方や戦術など戦国の世において必要とされる素養を身に付けてから足利義輝、に仕えたという説が有力と言われています。理由としては明智家は土岐家一族の出自でその一族からは幕府の奉公衆となっている者も多くいたからです。

3.「永禄の政変」

足利義輝は三好長慶の重臣の三好長逸、三好宗渭、岩成友通から成る「三好三人衆」と三好長慶の甥こと三好義継により自害に追い込まれました。この事件は「永禄の政変」と呼ばれています。三好三人衆は幕府の首長として将軍家を掌握しようとしていました。一方で足利義輝は将軍家による直接統治にこだわっていました。それ故に三好義継たちにとって足利義輝は邪魔な存在でした。そして、足利義輝の最期さ討ち取られてしまいました。

4.朝倉義景に仕える

足利義輝が亡くなった十兵衛は再び浪人となります。ただ、美濃国は斎藤家が治める地であったことから帰ることができません。そこで、岐阜に近い越前に行き着いたとそうです。そして、越前を治めていた朝倉義景に能力を認められたため十兵衛は朝倉義景に仕えることになりました。その際に十兵衛は足利義昭の上洛に向けて奔走することになります。一方で足利義昭の側近には細川藤孝がいました。そのため、十兵衛は細川藤孝と共に足利義昭の近習として室町幕府再興を目指すことになりました。

5.信長との出会い

足利義昭が頼った諸大名の中に信長と浅井長政がいました、そして、足利義昭に命じられて信長へ協力を要請しに行ったのが十兵衛でした。このとき十兵衛は初めて織田信長と接触しました。その時から十兵衛は朝倉義景の家臣でありながら信長の家臣も兼任するようになったそうです。

6.足利義昭を助ける

1568年足利義昭は信長や浅井長政の支援で無事に上洛を果たしました。ですが、足利義昭は1569年に足利義輝を自害に追い込んだ三好三人衆に襲われます。この事件は京都の本圀寺で襲撃されたため「本圀寺の変」と呼ばれています。その窮地に陥った足利義昭の危機を救ったのが十兵衛でした。十兵衛は細川藤孝や信長の家臣の池田勝正達と協力して三好三人衆を退きました。そして、十兵衛は京都奉行の職務を任されることになります。

7.金ヶ崎の退き口で活躍

1570年に同盟を組んでいた浅井長政が信長に謀反を起こしました。それ故に織田軍は前には朝倉軍後ろからは浅井軍が迫る挟撃の形となり撤退を余儀なくされます。このとき十兵衛は秀吉と共に越前国敦賀郡金ヶ崎において殿を務めました。これを「金ヶ崎の退き口」と呼ばれるこの撤退戦で十兵衛は朝倉軍による追撃を食い止め、織田軍の被害を最小限に抑えることに成功しました。この働きを信長から評価されて、宇佐山城を任されることになりました。

8.信長の元で貢献

その後、十兵衛は比叡山延暦寺の焼き討ちで実行部隊の中心として活躍しました。その功績を認められたため十兵衛は近江国滋賀郡約5万石を与えられ、坂本城を築城しました。この時点で十兵衛は正式に信長の家臣になったと言われています。それから、十兵衛は長篠の戦い、天王寺の戦い、有岡の戦いなど数々の戦に参戦しました。出自も定かではないほどの身分だった十兵衛は信長の重臣として有名になっていきました。

9.本能寺の変の1年前

本能寺の変話に入る前に本能寺の変が起こる1年前の話をしますね。

その当時十兵衛は「がらくたみたいだった自分を立派にしてくれた織田様には子々孫々、末代まで感謝の気持ちを忘れちゃならない」と信長に感謝する気持ちを書き残しています。さらに、十兵衛の寝室には信長直筆の掛け軸が飾かざってあったそうです。一方で信長も「光秀はすごい。日本一の武将だ。みんなも見習え」と十兵衛を激賛していました。こんなに仲良いのに本能寺の変に至るのは不可解ですよね。

10.本能寺の変

本能寺の変は起こったものは起こりました。経緯としては1582年5月に十兵衛は安土城で家康たちをもてなす饗応役に抜擢されました。ですが、不手際があったとされ任務を解かれてしまいます。その後、十兵衛は秀吉の毛利征伐の支援を命じられたため6月2日早朝に出陣することになりました。その時に十兵衛は秀吉信長所に行かないで信長のいる本能寺に向かいます。ただ、宴会の件でここまでに至るのは不可解ではありますけどね。過去の出来事をそれだけでひっくり返すのもなと思いまして。

そんなことはさておき、十兵衛は信長が宿泊していま本能寺を急襲して包囲しました。十兵衛の軍は1万3000人に対し信長は100人足らずしか近くに置いていなかったそうです。信長は奮戦するも、寺に火を放ち自害したそうです。一方で十兵衛は必死になり信長の遺骸を探しましたが見つけることはできませんでした。遺骸がないのも不可解ではありますよね、

※本能寺の変は永遠の謎です。色んな説はありますが私はある説を信じています。そこはあえて言いませんが。

11.山崎の戦いと最期

十兵衛は本能寺の変の後、京都を押さえてすぐに残党追捕を行います。さらに安土城への入城と近江を抑えようとします。ですが、瀬田橋を焼かれて琵琶湖を渡れなくなったため仮橋の設置に3日間かかっってしまいました。さらに、毛利家と和睦して戻ってきた秀吉軍6月13日天王山の麓の山崎で激突しました。
決戦時の兵力は秀吉軍が2万7000人に対し十兵衛軍が1万7000人・(激戦はあっという間に決着が付き十兵衛は敗走します。その後討たれた説もあれば生存説もあります。

 

帰蝶と十兵衛はいとこ?

明智家と斎藤家の関わりを示す史料「明智氏一族宮城家相伝系図書」では、十兵衛の叔母にあたる女性が道三に嫁いだという記述がありますが本書がどこまで事実に即したのかは分かっていません。ただ、この家系図に従うのであれば、十兵衛の叔母と道三との間に生まれた娘こと帰蝶と十兵衛いとこ同士ということになります。

小栗と要潤は役柄トレードでもいいのでは?

個人的には要潤の方が信長らしいと思っています。顔が濃いイケメンなので。私の中の信長は厳つさがある故にソース顔がいいなと思っているんですよね。一方で小栗の方が十兵衛のイメージがあります。それ故に2人の役柄は交換したらと思ってしまいました。ただ、これ言ったら何だよと思われるかもしれませんが十兵衛といえばハセヒロしか勝ちませんけどね。

まとめ

書いてて「麒麟がくる」が蘇ってきましたね。あの時のシーンやらこの時のシーンやら。足利義輝が特に懐かしく思いましたね。あと、「麒麟がくる」の本能寺の変はエモいなと思います。あれは泣けました。だからこそ、今回の「豊臣兄弟」では十兵衛と信長の関係がどう描かれるのかは気になってはいます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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