どうも、りかちゅうです!信長が美濃調略の際にある人がキーパーソンになります。その名は大沢次郎左衛門という人物です。彼は元は斎藤道三の家元に仕える人物です。ですが、信長が美濃調略してから秀吉に仕えました。ですが、信長とは関係が上手くいかず信長暗殺疑惑の話まで上がっていました。ただ、秀吉がいたことで彼は救われました。波瀾万丈ですね。だからこそ、この記事にて彼の話をしますね!

大沢次郎左衛門のプロフィール

巨大武将であることには変わりないです。秀頼よりも大きい人がいるんですね。では、彼は一体何者なのか?

名前 大沢次郎左衛門

生年月日 不明

没年 不明

備考

代々斎藤道三の家系に仕えている家です。次郎左衛門の代では義龍、龍興に仕えています。ですが、信長が美濃調略をしてからは秀吉の元で仕えていました。

 

実在はしていたの?

生年月日や没年は不明です。ただ、ちゃんと実在した武将です。「寛永諸家系図伝」や「美濃雑事紀」など江戸初期にまとめられた系図・地誌類にもちゃんと次郎左衛門の名前はあります。ですので、その話をしますね!

1.「寛永諸家系図伝」

「寛永諸家系図伝」は江戸幕府が編纂した諸大名・旗本の家系図集で次郎左衛門についても斎藤家の家臣で妻は斎藤道三の娘と書かれています。また、次郎左衛門はのちに秀吉・秀次に仕えたといった経歴もあります。

2.「美濃雑事紀」と「美濃国諸旧記」

「美濃雑事紀」や「美濃国諸旧記」という地方資料もでも鵜沼城城主として大沢家の名を挙げています。また、複数の系図・地誌が「同じ人物像」を共有しています。作り話ならここまで広く整合しません。

大沢家のルーツ

大沢次郎左衛門の家こと大沢家はとはどのような一族なのか?

「寛政譜」では次郎左衛門の家系はお父さんの大沢和泉守正信の代から始まっています。大沢正信は斎藤道三に味方する武将であり元々生駒道壽が城主であった鵜沼城を1552年に攻め落とし城主となったそうです。ちなみに、鵜沼城は尾張の犬山城と川を挟んで向かい合う小規模な山城で木曽川の渡河点を押さえる役割があったそうです。

大沢次郎左衛門の人生

 

1.斎藤義龍と龍興に仕える

次郎左衛門は美濃の鵜沼城の城主で、斎藤道三の子・義龍、そしてその子・龍興に仕えていました。ちなみに、次郎左衛門はこの城を拠点に東美濃の入口を守る地元の土豪・国人領主として位置づけられます。「寛永諸家系図伝」や地域資料では「鵜沼の虎」と呼ばれる槍の達人であった、知行高が数千貫に及んだといったと言われています。となると、名もなき小豪族というよりも周辺で一定の発言力を持つ存在ではありそうですね。

2.鵜沼城を明け渡す

1562年に信長が美濃攻略のために動き出したときその背後を押さえるために狙ったのが鵜沼城と猿啄城でした。「美濃雑事紀」によると城主や子らは討死したと記録されています。一方、「濃陽諸士伝記」や「豊臣記」では永禄1566年に秀吉の調略によって大沢家が城を明け渡したという伝承も残っています。「豊臣兄弟」では後者の方ですね。さらに、落城の時に倉庫が焼け落ち炭化した米が出土しました。この米はのちに病の治療薬になったそうです。

3.秀吉に仕える

信長の勢力が拡大する中で、次郎左衛門は秀吉の家臣となります。ただ、次郎左衛門の存在は、やがて信長の警戒を招くことになりました。次郎左衛門の武勇と大柄な体格が信長に裏切りの不安を抱かせたのかもしれません。この危機に関しては秀吉がとりなしたことで次郎左衛門は美濃へと戻り助かったそうです、

このような逸話から、秀吉と次郎左衛門の間に一定の信頼関係が築かれていたことや信長の組織内における緊張感の強さがあるのかなと思われます。

4.その後

それ以降のことはなかなかデーターとして残っていまけん。ただ、信長が亡くなってから次郎左衛門は浪人生活を挟みつつ、秀吉・秀次に仕えて知行を得たとする伝承があるそうです。また、小田原の万松院に隠棲し76歳で亡くなったという話も7寛永諸家系図伝」の情報として伝えられています。

次郎左衛門の逸話

以上が次郎左衛門の人生です。色々あったものの、秀吉のおかげで次郎左衛門は救われていますね。秀吉なくして次郎左衛門はいないかと。まあ、そんなことはさておき、彼には逸話があります。ですので、その話もしますね!

1.信長との関係

先ほども述べたように、次郎左衛門と信長の関係は悪化していきました。そのため、次郎左衛門は信長を暗殺しようとしたという疑惑があります。ただ、その暗殺疑惑は史料からはっきり言える範囲は意外なほど狭いそうです。

「信長公記」などの一次史料が伝えるのは、「次郎左衛門が宇留摩城主として信長の伊木山布陣を受け、やがて城を開け渡した」という事実だけです。その過程で信長がどの程度次郎左衛門を疑っていたのか、降伏後の処遇をどう考えていたのかなどの心理面は書かれているわけではないです。火のない所に煙は立たないから何もないはないでしょうね。

2.かなりの巨大武将

江戸時代に編纂された「本朝武功正伝」には次郎左衛門の身長が「七尺三寸(2m20cm)」で「34人力」と記されており、その規格外の体格と怪力ぶりが語り継がれています。秀頼が190cmを超えるデカさですね。それもあって、次郎左衛門「鵜沼の虎」という異名とセットで紹介されることが多くなっています。

ただ、この種の記述は誇張してる一面はあります。次郎左衛門の場合、具体的な数値が書かれているだけあって本当らしく見えるものの、実際はそこまでじゃないとは言われています。まあ、後世の脚色があったとしても、当時の人々の記憶に残るほどの強烈な人物像を持っていたことの証ではありますね。

まとめ

信長は美濃を凋落したものの、次郎左衛門のことは警戒していたんでしょうね。本来ならば敵となる人を秀吉の元に置いている時点で。あとは巨大武将で実績がることもあって元の力は認めていたものの、それでも警戒していたからと。それでもって、信長を暗殺しようとしていた疑惑の材料もあったかもしれない話があれば尚更ですね。ただ、秀吉は次郎左衛門はそんなことをしないと分かっていたからこそ信長が亡くなってから秀吉が彼を迎え入れたのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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