どうも、りかちゅうです!今年の大河ドラマは秀吉かと思いきや秀吉の弟ですね。名前は豊臣秀長です。彼に弟がいたなんて思ってもなかったです。彼のポジションは裏方ですね。現代でいう秀吉が社長をやるならば弟の秀長は二番手としてサポートをする存在です。それもあってなのか、秀長が10年長く生きてたら違う世界線になってたと言われています。それくらいの重要人物です。だからこそ、今年の大河の主役も兼ねて秀長の話をこの記事にてしますね!

豊臣秀長のプロフィール

名前 豊臣秀吉

生年月日 1540年4月8日

出身 愛知県

没年 1591年2月15日

備考

秀吉の弟です。内外の政務および軍事面で活躍し、秀吉の天下統一に貢献しました。また、秀長は秀吉に異議を唱えられる人材でもありました。

豊臣秀長の人生

以上が秀長のプロフィールです。いつも秀吉ばかりが目立っていますが彼は裏で活躍しました。ですので、その話をしますね!

1.生い立ち

豊臣秀長は秀吉が生まれた3年後の1540年に生まれました。秀長は秀吉の同父母兄弟と考えられ大政所と弥右衛門の子として、豊臣秀長は尾張国愛知郡中村(今の愛知県名古屋市中村)で生まれました。

※「太閤素生記」によると秀吉と秀長は異父兄弟で秀長のお父さんは大政所の再婚相手である「竹阿弥」だとされています。ですが、弥右衛門が亡くなったのが1543年とされることや「太閤素生記」の記述に不確かな事柄が多いことから、一応では同父兄弟とみる説が有力とされています。

2.農業をやってたのに…

1550年に秀吉は武士になるため家を出て信長に願出て信長に仕えます。その経緯はカットしますね。一方で秀長は「小一郎」と名乗り、地元で農業をしていました。ですが、秀長の運命は1561年頃を境に大きく変わることとなります。実は信長の奉公人となった秀吉が帰ってきた時に秀吉は秀長に奉公人となることを勧めたのです。それがきっかけで秀長は武士の道を歩み始めることとなりました。

 

3.秀吉の出世の城に携わる

秀長は秀吉ともに武士として着実に実戦経験を積み、ときには秀吉の危機を救うなど成長を遂げていきました。そして、1566年に信長のの美濃国攻めに伴い、秀長は墨俣城の築城に大きく貢献したとそうです。墨俣城は豊臣秀吉が織田軍の前進拠点となる地で一夜で築城したことで知られる城です。これって秀長の成果ですよね?強過ぎます。そして、この城が秀吉が出世の道を開いた城でもあります。

4.戦でも秀吉を支援!

1570年の金ヶ崎の戦いでは、浅井家に裏切られた織田軍の退却のために殿軍という後退する軍の最後尾を守る部隊を自ら志願した秀吉の指示に従いました。一方で秀長は金ヶ崎に立て籠もる役を務めています。この戦いで秀長が一番隊大将として防戦したことで秀吉が信長から信頼を得ることとなり、2人は出世へとつながっていったのです。

 

5.戦で攻める時もある!

1577年の信長による中国攻めでは秀長が竹田城を攻め落とし秀吉から竹田城代に任じられて但馬国の統治を任されました。それから、1579年の「三木城攻め」では秀長は信長から直々に命を受けて出陣し三木城兵士による夜襲撃退に成功してしました。この功績によって  1580年に三木城は降伏開城となり秀長は続けて英賀城も落城させて但馬国へ戻りました。

このように、立て続けに武功を挙げた秀長は41歳で出石城10万5000石の城主となります。それから、秀長は秀吉の指示に忠実に従いながら秀吉を献身的にサポートしました。

6.秀吉の天下統一に貢献

1582年信長が本能寺の変で討たれると秀長は信長の次男こと織田信雄を味方に付けることを秀吉に提案します。

この懐柔策を受け入れて動き出したことで秀吉は次々とライバルを破り天下統一に進みます。

そんな中、秀長は紀伊国・和泉国の中で64万石の大名となり豊臣家にとって要所である大坂南部を任されました。そして、1585年に秀吉が関白になると秀長は大和国を含む100万石の大々名となり全国平定に向けて政務をやりました。

 

7.秀吉の天下統一から1年後に亡くなる

秀長が政務に徹するようになった理由があります。それ体調の変化です。1587年以降体調を崩した秀長は軍事活動には携わらなくなりました。そして、豊臣政権の中枢として行政面を担っていきます。そうやって頑張ってても秀長は1589年頃から本格的に病状が悪化しつい1591年に52歳で生涯を終えました。

秀長の逸話

以上が秀長の人生です。秀吉よりも長く生きれなかったのはまさかなと思いましたよ。まあ、そんなことはさておき、彼には逸話があります。ですので、そこら辺も話しますね!

1.とにかく謙虚!

秀長は蜂須賀正勝や前野長康といった武将に「私達兄弟が手柄を上げられたのはあなた方がいてくれたからです」と低姿勢で接していました。また、秀長は墨俣城築城の協力を懇請していました。このような秀長の謙虚な態度に心打たれた人はたくさんいました。そのため、墨俣城の築城などで多くの武将が豊臣秀吉の調略に力を貸すようになっていました。また、秀長は兄の足りない部分を補つまたり味方や協力者を増やすための努力を重ねたりして戦場でも秀吉のために力を尽くしました。秀長はお兄さん思いな人なんですね。

2.なかなかな貯蓄家!

秀長は農民出身であったためぜいたくを好まず質素な暮らし励みました。それもあって、秀長が亡くなったとき大和郡山城には莫大な量の金銀が蓄えられていたそうです。こんなに貯めていたのはなぜか?秀長は銭が無ければ戦も政治もできないことをよく理解していたからです。

秀吉は金銭を使って兵士の流血を減らす戦い方をします。そのため、兵士や民衆の支持を勝ち取った一面はあったかと思われます。ただ、その策略は秀長の貯蓄家なマインドがあってのことです。

3.アドバイスが的確

秀長は現場の指揮やアドバイスがうまかったため周囲に的確な指示を与えていました。特に戦に勝つための作戦を練らなければならないときに秀吉に頼られることも多かったそうです。また、何かトラブルが起きたときも、温厚な性格の秀長が間に入ることで大事にならなくて済んだ事もありました。例えば、秀吉のおいの秀次が失態を犯し秀吉を激怒させた時も秀長がかばったことで信頼回復の手助けをした逸話があるそうです。

まとめ

秀長の存在ってどうしても影が薄くなりますよね。教科書だって秀吉ばかり登場しますし。戦国の大河ドラマだって秀長が登場は私は見たことないです(秀次なら見ますが。私が生まれてない大河ドラマならあるんですかね?)。まあ、秀長が自身がトップとなって動いたってわけではないですからね。ですが、色々見ていくと秀長いての秀吉って一面はあったのかなと思われます。金銭面や人間関係の件はまさにそうですよね。だからこそ、今回の大河ドラマがきっかけで秀長という人が知られたらいいなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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