どうも、りかちゅうです!徳川家って将軍となる子は「竹千代」って名付けられるのはご存知ですかね。そう考えると竹千代って何人もいることになりますね。まあ、そんなことはさておき、実は徳川家には竹千代と名付けられたのにもかかわらず、急死したため将軍になれなかった男がいました。その名前は徳川家基です。彼は文武両道だったのにもかかわらずその才能を開花することができませんでした。一体彼は何者なのか?この記事にて話しますね!

徳川家基のプロフィール

幻の将軍こと家基を知るためにもまずは彼のプロフィールから見ていきましょう!

名前 徳川家基

生年月日 1762年10月25日

没年 1779年2月24日(享年18歳)

備考

将軍になる予定だったけどなれなかった人です。それ故に「幻の11代将軍」って言われてます。もちろん、18歳で亡くなったため実績って実績も作れませんでした。聡明な人だったから惜しいですよね。

徳川家基の人生

このように、家基は将軍になれる人間なのにその機会が急死の影響で将軍になれませんでした。では、彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

家基は1762年10月24日に生まれました誕生。お父さんは10代将軍徳川家治でお母さんは家治の側室こと知保の方です。家治は五十宮倫子という正室がいました。ですが、その人との間には女の子しか生まれなかったため家基は待望の嫡男の誕生でした(そうなると知保の方の方が側室だけど立場が上になりやすいですね)。

もちろん、家基の幼名は竹千代です。彼は1763年11月よりから正室の五十宮倫子が養育することになります。ここは生みの親ではなく正室が育てるんですね。そうじゃないと立場がなくなりますからね。そして、1766年4月7日に家基は5歳であるのに、元服し従二位・権大納言の権威をもらいました。5歳で元服は早い方ですね。このように、家基は周囲の期待を集めながら成長しやがて政治にも興味関心持ちました。

2.江戸城に入る

聡明で文武両道に秀でた家基は家臣や幕臣から次期将軍としての期待を集めていたそうです。その後、1769年に将軍の後継者として江戸城の西丸へ入ります。

3.鷹狩りからの急死

このように、家基は将軍になるための準備をしていました。ですが、1779年2月21日に鷹狩りの途中で急に発病しました。もちろん、翌日からの祈祷や医師の治療はしたものの効果はなく1779年2月24日に18歳の若さで亡くなりました。

家治は家基の死を深く悲しみました。食事も摂れないほど嘆いたそうです。ちなみに、家基は東京都台東区にある寛永寺に葬られます。

家基の死因

急死って何があったんだよと思いますよね?実は2つの説があります。ですので、その節を話しますね!

1.田沼意次の暗殺

家基は田沼意次の政策を批判していました。ただ、家基のお母さんこたお知保の方は意次が推薦した人材ではありました。それなのに、生まれた男児が成長して自分たちを批判するとは計算外でした。それ故に意次が家基を暗殺したのではないかという説はあります。

2.一橋治済の暗殺

一橋治済という人がいました。一橋といえば水戸の人間ですね。その一橋治済が自分の息子こと豊千代を次の将軍にに就けたい思惑がありました。実際に豊千代は徳川家斉という名前になって11第将軍となっていますからね。それもあって、一橋治済が家基は不都合な人とみなしていたから家基を殺したのではないかと言われています。要するに、家基の死によって最も利益を得た人だから犯人説が唱えられてるということです。この影響で一橋の力は強くなりましたからね。

まとめ

「べらぼう」でも家基の死の話が描かれますね。それはそうですね。「べらぼう」の時代の話ですからね。ドラマでは家基は鷹狩りの際に突然倒れましたね。手袋に毒があるという設定ですね。これはドラマでは暗殺を唱えるってことになりますね。まあ、事実からしてもいきなり死ぬ時点で違和感しかないです。2つの説がありますが両方とも一理ありと思いますね。どちらとも家基を疎ましく思っていたわけですし。これを見ても家基は聡明でポテンシャルがあっても疎まれていたから将軍にならずに終わってしまったのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

かちゅう

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