どうも、りかちゅうです!「べらぼう」辺りから蝦夷の開拓が始まりましたね。それで、その蝦夷に絵師がいました。その名前は「松前廣年」です。彼は元は武士で松前藩の藩政に携わっていました。ですが、それだけで留まらず藩政をしながらも画家の活動をしていました。そんな彼だからこそ、江戸文化にも影響を与えました。蝦夷の画家とも言えますね。一体どんな人か?この記事にて話しますね!

松前廣年のプロフィール

生まれが武士で画家をやるなんて特殊ですね。蝦夷の人間となれば尚更のことです。では、彼のプロフィールはどんな感じなのか?

名前 松前廣年

生年月日 1764年6月25日

没年 1826年7月26日

備考

松前の武士であるのと同時に優れた画家としても知られる人物です。画家の際は「蠣崎波響」という名前で活動していました。

松前廣年の人生

実は廣年なんですが実はある人の義理の弟です。それはこれから分かります。まあ、そんなことはさておき、彼の人生はどんな感じなのか見ていきましょう!

1.生い立ち

松前廣年は1764年6月25日に松前藩の7代藩主の松前資廣と松前藩士の長倉長左衛門貞義の娘・勘子の子として生まれました。ただ、1765年に松前資廣が亡くなったため異母兄の松前道廣(「べらぼう」ではえなりかずきが演じています。あのえなりかずきは恐ろしさもありますね。)が13代目の藩主となりました。れっきとした大名の家に育ったんですね。

2. 蠣崎家の養子の養子になる

その後、廣年は家禄500石の松前藩の藩主一門寄合であった蠣崎家の養子になりしばらく経ってから家老職に就きました。松前藩は廣年とも交流していた儒学者で経世家であった大原左金吾を招きました。

3.画家とての活動

後から詳しく話しですが一旦軽く話しますね。廣年は早くからあの才能を見出しました。そこで、江戸では南蘋派の建部綾足や宋紫石に絵を学びました。それから1783年に画家・大原呑響が松前に来訪した際に影響を受けたことで1791年には京都に行って円山応挙に入門しました。このような出会の影響で鋭く洗練された作風を形作っていったそうです。

4.戯言と転封

松前藩の外交政策に懸念を持った大原左金吾の讒言が原因で1807年に北海道から陸奥国伊達郡梁川藩に転封されることになりましました。その影響で廣年も梁川藩に移りました。それでも、廣年は家老として藩政に尽力しました。その努力の結果、文政1821年には蝦夷地が松前氏に返還され藩政も再建されました。

5.晩年の作品で貢献

領地復帰に向けた働きかけを行う一方で廣年は画業にも力を注ぎます。梁川での生活で創作活動をしていました。特に「花鳥人物図」は地方文化の成熟を象徴する作品として知られています。その後1826年6月22日に廣年は63歳で亡くなりました。その墓は北海道松前郡松前町の法源寺にあります。

絵師としての廣年

先ほども述べたように廣年は画家もやっていました。ですので、画家の廣年のことについても話しますね!

 

1.修行

廣年は公的な役職を務めると同時に絵師蠣崎波響としても活躍し名声を高めました。幼いころから絵の才能を発揮しそれを見込んだ家老の松前廣長が江戸に呼び寄せ、南蘋派の建部綾足、宋紫石に絵を学びました。南蘋派は中国の画家沈南蘋を祖とします。その沈南蘋は8代将軍の吉宗が清から呼び寄せた絵師です。権威のある画家ということですね。

2.二十歳の作品

廣年は二十歳の時にこのようなものを描きました。

この絵はアイヌの男性像です。シントコあるいは行器と呼ばれる容器に腰を下ろしています。シントコとは漆器でありアイヌの富の象徴とされています。ちなみに、シントコの数が家格を示していたそうです。アイヌ特有の表し方ですね。

3.京都に進出!

廣年は代表作である「夷酋列像」を持って1791年に京都に行き話題になりました。こちらの絵です!

この絵で光格天皇による天覧という栄誉も得ました。また、廣年は京都にある時は円山応挙に師事し高山彦九郎とも交流しました。

 

まとめ

「べらぼう」では松前藩の人といえばえなりかずきが目立っていましたね。あの人の演技で全部持ってかれた気がしますwwwwwww。まあ、そんなことはさておき、「べらぼう」は文化人の話だからこそ廣年の方が話に介入してきてもおかしくないかと。実際に誰袖ちゃんとは関わってますし。そう考えると廣年にも注目してもいいのかなとは思います(えなりかずきのキャラが濃いからそっちに目が行きますが)。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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