どうも、りかちゅうです!秀長には奥さんがいました。まあ、秀吉の弟で独り身はないですよね。天下を取る側の人間なら奥さんの1人や2人くらい。とは言っても、秀長の正室は秀吉の正室こと寧々のように有名ではないです。ドラマでは「慶」という名前ですがあれは戒名の一部を取っているだけです。ただ、秀長の正室であることは史実にもあります。ですので、今回は慶のことについて話しますね!
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慶のプロフィール
彼女のデータというデータは少ないですが彼女のプロフィールから見ていきましょう!
名前 本当は不明
「慈雲院殿芳室紹慶」と刻まれていることから、ドラマでは「慶」となったのでしょう。
生年月日 不明
没年 不明
備考
秀長の正室です。個人的には慶は秀吉の正室こと寧々のようには目立たなかったんですね、
慶の人生
以上が慶のプロフィールです。彼女のデータは少ないものの秀長の正室なのは事実です。ですので、彼女の人生を見ていきましょう!
1.現実に存在していたのか?
秀長の正室はいます。それが慶に値します。あの時代で出世していく男に相手がいない方がおかしいですからね?ただ、戦国時代の女性は基本的にその詳しい出自や本名は多くの謎に包まれています。よほど身分が高い女性かメジャーな武将の奥さんでない限り記録に実名が残ることはそうないです。それ故に慶のデータは少ないんです!ですが、秀長の史実から見ると慶が秀長の正室であることは分かります。
2.本当の名前は?
本名に関しても定かではないです。ただ、確実なのは秀長の死後に慶が出家して名乗った「慈雲院」は法名です。 当時の高貴な女性は、 本名ではなく「〇〇院」や「〇〇殿」と呼ばれるのが一般的でした。だから、彼女は秀長が亡くなる前は秀長の出世した役職でもあった大和中納言の北の方(正室)として呼ばれていたのかなと思われます。
3.結婚はいつ頃?
結婚の時期に関してはいくつかの状況証拠から推測することは可能です。 有力な説としては秀長が長浜城主や但馬守護として出世し始めた頃に結婚した説があります。また、慶は信長の家臣や地元の有力者の娘である可能性が高いそうです。となると、秀長がある程度地位を得てから結婚したことになりますね。それまで秀長が他の人と結婚していたけど死別したかなどの情報は謎ですけどね。
4.2人の夫婦仲は良かったらしい!
2人の夫婦仲は非常に良かったと推測されています。 その動かぬ証拠が和歌山県にある仏教の聖地、高野山・奥の院にあります。そこなは戦国武将たちの墓所がたくさんあります。その中でもかなり巨大な秀長のお墓があります。 そしてそのすぐ隣に慶お墓も寄り添うように建てられています。しかも、これは慶自身が生前に「お墓を夫の隣に建ててほしい」と願って作らせたものだそうです。
当時は政略結婚が当たり前故に夫婦の墓が別々にあることは珍しくありません。そんな中、死後も慶は秀長のそばにいたいと願い同じ場所に墓を並べました。これを見ても、二人の絆の深さと彼女には秀長への深い愛情があるのは確実ですね。
5.子供事情
2人の間に実の子供がいたかどうかは?定かではありません。一説には男の子がいたものの、幼くして亡くなったとも言われています。ただ、「おみや」と「おきく」という2人の娘がいました。とは言えども、慶の子なのか側室の子なのかは分かっていません。ちなみに、おきくは毛利家の毛利秀元に嫁ぎました。
このように、秀長には慶の子かは分からなくても子供はいました。ですが、跡継ぎとなる男の子は成長していません。そのため、秀長と慶は秀吉の甥である秀保を養子として迎え実の子のように大切に育てました。
6.秀長の死後の慶
養子の秀保は秀長の死から4年後の1595年17歳という若さで謎の死を遂げてしまいました。十津川での事故死や、病死説がありませ。これにより、100万石を誇りっていた大和豊臣家(秀長の家系)は断絶しました。領地はすべて没収されてしまいます。そのため、慶はその後住み慣れた大和郡山城を離れ京都に移り住みました。そこで秀長や秀保の菩提を弔いながら静かに余生を過ごしたと言われています。
7.最期
慶がいつ亡くなったのかの正確な年は分かっていません。ただ、1611年頃までは存命だったという記録があります。 となると、彼女は関ヶ原の戦いや大阪の陣が起きる前の出来事などは遠くからでも見ていたことになりますね。
慶は安全守就の子ではない?
「豊臣兄弟」では慶は守就の子供ではありますが現実は違います。違うというか誰の子供かは定かではないんですよね。色んな説はありますが確定できるのはないです。ただ、ドラマでは守就の子供であるとなると本能寺の変前後がどうなるのかは気になりますね。なぜなら、本能寺の変の直前に守就はいきなり信長に追放されてしまうからです。その事態からどう秀長と慶夫婦の仲が描かれるのかは気になります。
まとめ
夫婦の仲は良かったものの男の子を失ってしまったのは残念でしたね。もし秀長と慶の間に男の子が生まれてその子が生きていたら秀長の血筋はもっと残せていたのかと。2人の娘たちが嫁いだいたとしても名前は豊臣にはならないから尚更のこと。そう考えると、秀吉も秀長も子供運は残念だったなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
