どうも、りかちゅうです!お市の方は美しかったそうです。そして、お市の方の初めての旦那の浅井長政も戦国時代ではイケメンだったとか。それはお市の方にも言える話ですが。それ故にお市の方の3娘は綺麗だったそうです。その長女が茶々です。彼女は1番目立ちました。秀吉の1番の側室だったからです。もう別妻レベルです。あと、大阪の陣で豊臣方として相当目立ちました。彼女の采配はどう考えてもあれれだったのもあったので。とにかく、彼女のインパクトはすごいです。ですので、この記事にて彼女の話をしますね!

茶々のプロフィール

茶々は有名ではありますがまずは簡単なプロフィールから見ていきましょう!

名前 浅井茶々

「浅井菊子」のという名前もあります。これはのちに朝廷から従五位下(を賜った際に授かった名前です。また、茶々の呼び方こと淀殿は生前に呼ばれていたことを示す明確な史料はないです。生前は「淀の方」などと呼ばれていたと言われています。

生年月日 1569年

没年 1615年6月4日

備考

お市の方の長女です。秀吉の側室となってから目立つようになりました。最期は分かる人は分かりますがお市の方と同じように落城されて自害です。

茶々の人生

以上が茶々のプロフィールです。生粋のお嬢です。では、彼女はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

茶々は1569年頃近江国小谷で誕生したと思われます。お市の方が浅井長政に嫁いだならそれが濃厚かと。ちなみに、お市の方と浅井長政の仲は良くその後茶々には初と江と2人の妹ができました。それからしばらくの間は平和に暮らしていました。

2.浅井長政との別れ

浅井長政は信長と敵対してしまいました。せっかくの同盟とお市の方の政略結婚が台無しになりましたね。そのため、1573年に浅井家は織田軍によって本拠の小谷城を落とされてしまいます。その時の現場担当は秀吉です。そして、浅井長政と茶々のおじいちゃんの浅井久政は自害しました。その後、茶々、初、江、お市の方は救出され信長の目の届くところで保護されました。

 

3.信長の死後と柴田勝家との生活

1582年に信長が「本能寺の変」で亡くなりした。それ以降、お市は柴田勝家と再婚しました。そのため、茶々は柴田勝家の城こと北ノ庄城へと付いて行きました。柴田勝家とお市の方は仲が良かったそうです。そのため、茶々、初、江は楽しく暮らせてたそうです。ですが、そんな日も束の間でした。

4.賤ヶ岳の戦いでお市の方と柴田勝家を失う

柴田勝家と秀吉は信長が亡くなってから対立していました。信長が亡くなってから秀吉が目立ってた故の対立ですね。その対立は解決することはなく激化しました。それ故に1583年に「賤ヶ岳の戦い」が勃発しました。結果は秀吉が勝ちです。それ故に勝家がお市の方と共に自害してしまいました。お父さんもお母さんも亡くしてしまいましたね。それ以降は三姉妹は秀吉に保護されました。

 

5.秀吉の側室となる

1588年頃に茶々は秀吉の側室として大坂城へ入りました。当時27歳前後だったとされる茶々が50歳超えていた秀吉を選ぶって何事と思いますよね。しかも、お父さん。義理お父さん、お母さんの仇でもある人を選んだのはなんでなのか?確かに、秀吉が茶々をかなり気に入っていたのは分かります。秀吉はお市の方が好きでした。そして、茶々は3姉妹の中でもお市の方に1番似ていました。それ故に茶々に対する思いが強かったと。一方で茶々の方の決め手は謎です。

6.側室として権力を持つ

1589年に捨こと豊臣鶴松が生まれました。秀吉すでに53歳で子供に恵まれなかったためすごく喜び茶々に山城国の「淀城を与えました。秀吉からしたら後継者ができたと思ったんでしょうね。そして、茶々は天下人の後継者のお母さんとして発言力を強めていきます。ですが、鶴松は1591年病死しましたが、2年後に拾こと秀頼が生まれました。

 

7.関ヶ原の時の茶々

関ヶ原の時の茶々は三成方にも家康方にもどちらにも積極的には加担していません。両軍から微妙に距離を置いて様子を見ているだけでした。そして、関ヶ原の戦いの後に茶々は自分と秀頼が西軍に関与していないことを勝った家康に認めさせ責任追及を免れます。感謝した茶々は家康を大坂城で饗応しました。その時に家康は秀頼の父親代わりであるとまで公言してしまいました。政治資質がないのが伺えますね。そんなこと言ったら家康が力持つことになるというのに。

それから、豊臣政権を運営していた五大老・五奉行がいなくなった大坂城では茶々が主導権を握りました。茶々は自分から戦や政をやったことないです。これは厄介なことになりますね。

 

8.家康との対立

1603年に征夷大将軍となった家康は、江戸幕府を開きました。そして、2年後の1605年に家康は秀忠を2代将軍として世襲させました。

これにより、秀頼が将軍になるチャンスがなくなりました。この件に茶々は激怒します。さらに、この怒りに煽るかのように家康は秀頼に対して臣従を求めるどけでなく茶々き人質としての江戸在住か国替えかを要求しました。家康の主としての自負を持つ淀殿にとってこの要求は屈辱的でした。これは大阪の陣のトリガーの1つとも言えます。

9.大阪の陣と最期

1614年に「大坂の陣」が勃発しました。豊臣側には旧来恩顧の大名達による加勢はないです。そのため、秀吉が遺した金銭で浪人を集めて戦いました。冬の陣は幸村さん作成の真田丸があったことで優勢でした。ですが、和睦のせいで外堀、内堀、真田丸はなくなったため夏の陣はどんなに浪人兵が頑張っても無理ありました。それ故に1615年夏の陣てで大坂城は落城し彼女はそこで自害しました。

 

大阪の陣は「豊臣兄弟」では放送されないね

茶々の最期こと大阪の陣は「豊臣兄弟」では放送はないでしょうね。主人公である豊臣秀長は大阪の陣の前に亡くなってますから。なんなら、秀吉よりも先に亡くなってます。その時点で茶々にとってのハイライトは秀吉との結婚がメインになるのかなと思われます。ドラマでは秀吉が赤ちゃんの時の茶々を抱っこしたりあやしていましたね。そこから視聴者は何思うでしょうね。

秀頼のお父さんは秀吉ではない?

秀吉は多くの側室がいました。それなのに、他に子どもがなかったことから秀吉は子供を作れる身体ではないと思われていました。いや、これ誰だってそう思いますよね?それなのに、茶々と秀吉の間に子供は生まれたことになりました。2人の歳の差は異様、秀吉は種無しかもしれない。それなのに、子供ができるのは違和感ですよね。

それ故に茶々の子どもの父親は他の人ではないかという噂が当時からあったそうです。その他の人は説としては茶々の乳兄妹である大野治長であるとする説が有力です。これ見てると女もしれっと裏で遊んでいた人はいそうですよね。

まとめ

茶々の見かけは1番お市の方に似ているだけでなく最期もお市の方と同じでしたね。恋愛面は別でしょうけど。お市の方は浅井長政と柴田勝家に惚れ込んでいたわけですから。一方で茶々は裏で遊んでいたわけですし?まあ、秀吉が旦那でも本能的に満たされないのは分かりますが。仇でもある人なら尚更。そう考えると、お市の方と茶々は違うところはあるなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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