どうも、りかちゅうです!重三郎としては苦しい時が来ましたね。「時が来た」はプラスな時に使う言葉ではありますが…。なぜならば、寛政の改革の時に出版統制令が出されるからです。この規制によって文化人はうまいこと活動ができなくて苦しみました。人によっては処罰を受けていますからね。それでも文化人は諦めませんでしたが。ですので、この記事にてその話をしますね!
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寛政の改革とは何か?
寛政の改革とは1787~1793年の6年間松平定信が主導した幕政改革です。経緯としては天明の大飢饉の影響などにより幕府の財政や、社会の荒廃を立て直さないといけない状況でした。そこで、定信が老中になって改革を進めました。ただ、あまりに厳しすぎたり民衆の生活にまで介入したりしたことで批判を浴びた改革でもあります。詳しいことはこちらを見てください!
出版統制令とは何か?
定信は寛政の改革のときに思想統制をしました。朱子学をメインとするやつですね。また、定信は幕府への批判を禁じるための言論統制も実施します。1790年に風俗を乱す好色本・洒落本、政治批判や時事風刺を含む黄表紙・滑稽本などの出版物を禁じる「出版統制令」が出されました。
出版統制令では新刊本の奥書には作者と版元の実名を入れるよう求めています。そして、この出版統制令の被害を受けたのが喜多川歌麿や朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝といったベストセラー作家・絵師たちです。彼らの作品は風紀に乱すということで処罰を受けました。ちなみに出版統制令は浮世絵も対象でした。そのため、歌麿の美人画は「風紀を乱す」とさまざまな規制をかけられることになります。
出版統制令とその仕打ち
このように、出版統制令で文化人は苦しみました。その仕打ちも痛いものです。ですので、その話をこれからしますね!
1.出版統制令の経緯
出版統制そのものは8代将軍の徳川吉宗の時代から緩やかに実施されていました。1722年に主に遊郭での遊びを描いた本こと「好色本」の絶版や、徳川家に対する記述の禁止を命じていました。その統制をより厳しく増補したのが、1790年に定信が発布した「出版統制令」になります。内容としては享保の改革の時より検閲を強化しています。なんか幕政批判や風紀を乱す書物と書き手に対して徹底的な取り締まりをしたそうです。
2.具体的な処罰
弾圧の主要な対象になったのが幕政を風刺する書物が多かった黄表紙や遊郭を舞台にした洒落本です。戯作者は絶版や断筆に追い込まれました。具体例としては町人層出身の戯作者山東京伝や「べらぼう」の主人公こと重三郎は鉄製の手錠をかけた状態で自宅に50日間謹慎こと手鎖50日と罰金刑のこと重過料」処されました。このように、見せしめとして人気作家や版元に苛烈な罰が与えられました。
2.幕政批判も規制
それ以外にも海防の充実を唱えた「海国兵談」や日本近郊の国々についての解説本こと「三国通覧図説」が幕政批判と解釈されたことで経世家の林子平」が「謹慎」に処されています。
3.庶民の楽しみまでなくなる
規制の波は当時庶民の間で親しまれていた浮世絵も対象になりました。特に問題視されたのは華やかな構図やなまめかしい女性の姿を描いた美人画です。そこで、重三郎はある工夫をひました。それまでは女性の全身を妖艶に描くことが主流だった美人画だったものの、規制が入ってからは上半身のみ描く構図に変えて規制の目をかいくぐったのです。山東京伝はのちに著書のなかでこのように言っています。
版元蔦屋重三郎大腹中の男子なれば、御咎もさのみに思はざる気色なりし
蔦屋重三郎は度量の大きな男で、処罰をものともしない様子である
重三郎の対策
規制があったとしても重三郎はそれでも文化活動をしました。ですので、その話をしますね。
1.浮世絵の対策がヒットする
蔦屋重三郎が講じた美人画での対策は、大きな反響を呼びました。その際に重三郎が育てた新進気鋭の歌麿がを全面的に支援しました。そのおかげで美人画の新たな境地である「大首絵」を浸透させたのです。また、大首絵は構図の変更のみならず被写体の美しさを表現することから被写体の素顔に迫って人間性を描くこともしました。
2.他の絵のジャンルも生まれる
また、重三郎は美人画で成功した手法を歌舞伎役者を描いた作品こと役者絵にも活かそうと試みます。突如として現れた浮世絵師こと東洲斎写楽」を抜擢して「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」などを描かせ浮世絵ブームを復活させました。このように、出版統制令の時は未曾有の浮世絵ブームが到来しました。また、重三郎以外の版元も出版規制への抜け道を模索しました。その代表例が浮世絵に文字を書き込むことで謎解きを盛り込んだ「判じ絵」です。流行させた人物は不明です。ただ、規制の抜け道として定着し広く人気を集めました。
寛政の改革の後はどうなったの?
寛政の改革以降は状況が大変化しました。では、どう変化したのか?
1.浮世絵の黄金期到来!
改革の時はあんなに規制があったのに終わったらなんと浮世絵の黄金期に入りました。そのため、町人を主体とする化政文化がやって来ました!具体的には戯作でも黄表紙や洒落本に代わって言動の滑稽さを描いた「滑稽本」や通俗小説の「読本」、庶民の色恋を題材にした「人情本」などが流行りました。特に、読本の「十返舎一九」や滝沢馬琴らが化政文化を盛り上げました。このように、思想統制によって一時的に文化面の停滞を招いたものの、その反動で新たな町人文化が生まれした。さすが日本人、クリエイティブさは凄まじいですね!
2.定信が文化に貢献する?
定信は人材登用に力を入れた人でした。そのため、寛政の改革後は定信が育てた人材が活躍しました。具体例としては伊能忠敬」による日本全国への測量などがはじまっています。また、
他にも、江戸で流浪となった者に職業訓練を施す人足寄場を設置したことで幕政に貧民救済という方針を作りました。その行動は江戸幕府の権威回復にも一役買いました。定信は寛政の改革の時よりも活躍してる気がしますね。
まとめ
規制の渦中の時は本当大変だったかと思われます。50日も手錠をかけられてるなんて地獄です。ただ、その規制があったことで新たな作品が生まれたのは才能かと思われます。あと、規制が終わってから文化の黄金期が来るなんて衝撃でした。これは本当は文化に触れたかった定信のおかげもあるのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう