どうも、りかちゅうです!秀吉は家康との戦いが終わって家康が秀吉の傘下になった次は四国攻めをしました。あの長宗我部元親がいる四国です。長宗我部元親は秀吉と対立していましたからね。ただ、結局は秀吉が数の暴力で四国平定をしたため長宗我部元親は折れました。これを四国平定と言います。一体どんな平定劇場だったのか?この記事にてその話をしますね!

四国平定とは?

四国平定は1585年6月から8月にかけて秀吉と四国の戦国大名こと長宗我部元親の戦いです。結末は四国を統一したばかりの長宗我部元親は四国平定によりわずか2ヵ月で土佐国のみを残してその他の国を奪われることとなりました。土佐の出来人と称された長宗我部元親は秀吉には敵わなかったことになります。

四国平定のきっかけ

四国平定のきっかけは秀吉と長宗我部元親との関係が悪化していたことです。どう悪化していたのか?

1.家康の次は長宗我部元親

小牧・長久手の戦いで家康と戦った秀吉は信雄とは和睦し信雄を織田家の当主に据えました。そして、秀吉は家康に妹の朝日姫を嫁がせたり、お母さんの大政所を人質に送ったりしたことで家康も秀吉の家臣になりました。それもあって、秀吉は四国と九州を統一すれば天下統一を果たせる段階に入っていました。そこで、1585年に四国統一を決意します。

2.長宗我部元親が和睦条件を拒否

一方で長宗我部元親は四国を1585年に統一したばかりでした。さらに、小牧・長久手の戦いでも信雄、家康と手を組んで秀吉と対立していたため長宗我部元親は秀吉との関係は悪化していました。長宗我部元親は和睦の条件として伊予国の割譲を提案しますが秀吉はこれを拒否しました。そして、秀吉は伊予国だけでなく、讃岐国も割譲するように求めました。ですが、長宗我部元親がその提案を受けませんでした。そのため、交渉は決裂し秀吉は1585年6月に秀長を総大将とし10万人もの大軍を長宗我部元親の元へ送ることとなりました。

四国攻めの準備

1585年に四国を攻略することを決めた秀吉ですは初めての海を渡っての戦というだけあって入念に準備を進めました。一方で長宗我部元親もかなり準備していました。ですので、どう準備していたかを話しますね!

1.秀吉側

まず、5月4日に官兵衛を淡路島に出兵させると共に一柳直末を明石に派遣して現地に待機させます。そして、8日には秀長に和泉と紀伊の船の数の調査を紀伊の国人である白樫家と玉置家に四国攻めのための準備と船の手配をそれぞれ命じました。これを受けた秀長は船の調査を実施し和泉と紀伊の船を紀ノ港に集結させるよう命じています。そして、6月に秀吉は四国への出陣を決定します。当初は秀吉自身が兵を率いて6月3日に出陣する予定でした。ですが、病気になっただけでなく、秀吉と敵対している越中国の佐々成政への牽制があったため秀長を総大将に副将は秀次になりました。

2.長宗我部元親側

一方で長宗我部元親は秀吉側の動きを察知していました。そこで、1585年の春ごろから防備を固めて戦に備えていました。まず四国から土佐勢6000人を含む2万人から4万人の兵を集めました。また、5月には四国統一の拠点である他の3国とのアクセスが良い阿波国三好郡の白地城に本陣を置きます。さらに、秀吉たちが阿波方面から侵攻すると予想した長宗我部元親は阿波の各城に重臣と兵を配置しました。

四国攻めの始まり!

ここまで準備してからの四国攻め開始です。10万人の兵がどう四国を攻めたのか?

1.淡路島方面

四国攻めで秀吉が取った作戦は軍を3つに分けて四国を三方向から攻めるというものでした。具体的には淡路島から阿波を担当は豊臣秀長率いる本隊と秀次がで兵は合計6万です。次に備前から讃岐を担当は宇喜多秀家、正勝、官兵衛達で兵は合計2万3000人(1万5000人の説)です。最後に安芸から伊予を攻める考えです。担当は毛利輝元、小早川隆景、吉川元長達毛利勢が安芸で兵は3万から4万です。これは大軍で長宗我部元親を下す計画でした。

2.阿波国攻め

秀長が率いる約3万の本隊が担当したのは阿波国攻め。本隊は6月16日に堺を出港し、淡路島に到着しています。これに副将の秀次が3万の兵と共に明石経由で合流しました。そして大小800隻の大船隊で阿波国の土佐泊(に上陸。讃岐国担当群が合流し、軍はさらに膨れ上がります。

豊臣軍はまず初めに東条関兵衛が守る木津城の攻略に取りかかりました。8日間の戦いの中ら水の手を断たれたことや、豊臣軍にいた関兵衛の叔父こと東条紀伊守の説得工作により関兵衛は豊臣軍に城を明け渡します。その後土佐に逃げのびますが、怒った元親により切腹に追い込まれました。

2.少ない兵力で戦う長宗我部元親

その後も豊臣軍は勢いに乗り、長宗我部軍は劣勢に立たされてしまいます。豊臣軍の三方向から同時に攻める作戦に翻弄され、少ない戦力を分散して対応しなければならない長宗我部軍は苦戦を強いられます。そのため、牛岐城の香宗我部親泰と渭山城の吉田康俊は城を捨てて土佐に戻ってしまいます。残された城のうち一宮城は秀長が、岩倉城は秀次が攻略を担当。一宮城は谷忠澄と江村親俊が1万の兵とともに守っていましたが、豊臣軍5万に包囲され、補給路と水の手を断たれたことから7月下旬に開城しています。

また、岩倉城攻めは秀次に加え官兵衛も参加しており、城の隙に高楼を作って大砲を打ち込むなどの策で岩倉城の比江山親興を苦しめ、降伏に追い込みました。脇城も秀吉軍の攻撃を頑張って耐えたものの、隣の岩倉城が落城したことで開城。こうして阿波国の防衛線は崩壊し、阿波国での戦いは秀吉軍の勝利に終わりました。

3.讃岐方面

讃岐国に向かった軍は屋島に上陸しまずは高松頼邑が守る喜岡城を落とします。次に香西城と牟礼城を攻略します。そして、長宗我部元親の従兄弟である戸波親武が守る植田城を攻めようと考えます。ですが、植田城は守りが固く堅牢な城です。官兵衛は「植田城を取り囲んだ場合、背後から長宗我部軍が攻めてくるのではないか」と推察し、植田城攻めを中止して阿波国の本隊と合流することを提案しました。その意見に結局諸将もこの案に同意したことで讃岐国の豊臣軍は植田城を素通りして本隊と合流することになりました。

実は、長宗我部元親は植田城近くに伏兵を忍ばせていたした。実は秀吉軍植田城を攻めさせることで挟撃する作戦を実施しようと考えていました。その計略は官兵衛によって見抜かれてしまう結果になったことになります。

4.伊予国方面

伊予国に向かった豊臣軍のトップは毛利輝元です。輝元は三原に残りましたが兵を乗せた船は6月下旬に出航しました。また、6月27日には小早川隆景率いる軍勢が今治に、7月5日には吉川元長が今治もしくは新居浜に上陸しました。

毛利勢の最初の攻撃目標は宇摩郡の石川家と石川家家臣団の実力者で新居郡を治める金子元宅でした。ここで激戦を繰り広げたのが7月に起きた「天正の陣」または「金子城の戦い・高尾城の戦い」と呼ばれる戦いです。

毛利軍はまず7月12日から高尾城から攻略を開始し双方多数の戦死者を出す激戦が繰り広げられました。そして7月17日に元宅は高尾城に火を放ち600あまりの兵たちと城外に討って出ました。結果は毛利軍の大勝利です。その後、毛利軍は高峠城などの新居郡の城を攻め金子城を落城させます。そして、東進して宇摩郡を攻略にかかります。そんな中、長宗我部元親が豊臣軍に降伏したものの、毛利軍は伊予攻めを止めてませんでした。その後も継続し8月末に伊予を制圧しました。

長宗我部の降伏

ここまで母数で攻めれば長宗我部元親も限界です。そこで彼は降伏しました。では、どういう経緯だったか?

1.苦戦だったものの

豊臣軍の三方攻めに苦戦する長宗我部元親はまだ戦を諦めたわけではありませんでした。ぇすが、一宮城から落ちのびてきた谷忠澄をはじめとした部下たちは降伏を進言しましあ。特に忠澄は自分の目で見た秀吉軍の圧倒的な兵力を理由に元親に強く降伏を訴えました。その発言に長宗我部元親は「一度も戦わずして降伏するとは武士の名折れ」と言い徹底抗戦をしました。そんな中、7月25日に秀長から、長宗我部元親に土佐一国を与えられるよう努力することを明記した停戦勧告の書状が届きます。そこから結局長宗我部元親は停戦勧告を受け入れる形で降伏を決定しました。そして、8月6日には講和が成立し四国攻めは秀吉軍の勝利で幕を閉じました。

2.講話の内容

講和の結果、長宗我部家は土佐一国をかろうじて安堵されることになり、阿波と讃岐、伊予国は豊臣秀吉に没収されました。さらに、8月4日の「四国国分」で阿波国は蜂須賀正勝の子の家政に、讃岐国は仙石秀久と十河存保に、伊予国は小早川隆景にそれぞれ与えられました。また、講和条件には長宗我部信親を大阪に住まわせること、次男や家老を人質として差し出すこと、長宗我部家当主が兵を3000を率いて軍役を務めること、家康との同盟禁止することも挙げられていました。長宗我部元親はこれを遵守しました(ただ、人質として差し出したのは三男です)。

 

まとめ

数の暴力で豊臣方は長宗我部元親を降伏に至らせましたね。いくらクリエイティブな長宗我部元親でもこの数の暴力には負けますね。現に家臣たちが犠牲になっていますから。まあ、豊臣方からしたらもう色々制覇しているから数の暴力でかまそうと思えばかませるからこの作戦にしたのかなと。そう考えると、豊臣方は四国平定以降はその作戦で天下統一をしていだ他のかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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