うも、りかちゅうです!一条天皇が亡くなってからの平安時代は大変でした。理由は一条天皇の次の天皇になった三条天皇が道長が対立していたからです。この対立は周りにも影響を与えました。それもそうですね。その当時の道長は誰もが逆らえないくらいの権力の持ち主でした。それなのに、三条天皇は道長のやり方に対抗しました。それ故にしばらくの間二人には確執がありました。結果としては道長が勝ちましたけどね。にしても、そこまで対立するってなにがあったのと思いますよね。ですので、この記事にて対立理由を話しますね。

三条天皇と道長の関係

実は三条天皇と道長は血縁関係にあります。詳細としては三条天皇のお母さんは道長のお姉さんです。ということは三条天皇にとって道長は甥です。なら身内なんだし仲良くやったらと思いません?そうはいきません。三条天皇は藤原家の傘下になる政治なんて嫌という考えが強い方でした。それもそうですね。彼は色々あって35歳になって天皇になりました。そのため、這い上がりたいという考えは誰よりもありました。これは道長にとっていい思いはしませんね。

元々は不仲ではなかった2人

確かに、2人は対立したものの元は対立関係ではなかったんです。実は三条天皇と道長には次のような逸話があります。1000年に三条天皇は東宮で弓と蹴鞠の遊びを催しました。その際に道長は帰り際に美しい梅の花が咲いているのを見付け一枝折って三条天皇に手渡したのです。その行動に三条天皇は「君折れば 匂ひ勝れり 梅の花」と詠みました。そして、道長は「思ふ心の 在ればなるべし」と返しています。これを見ても不仲な感じは見当たりませんね。やはり、三条天皇と藤原道長が対立したのは政治的なことでしょうね。

2人の対立のきっかけ

このように、元は対立することもなかったんです。ですが、政治的なことで意見が食い違い2人は対立しました。ですので、そのきっかけを今から話しますね!

1.関白を拒否する道長

三条天皇は何度か道長に対して関白になるよう要請したそうです。なぜなら、関白は権威はあるものの政治関係では不利には多少なります。それもあって、三条天皇は道長に関白になれと言ったんでしょうね。ですが、その度ごとに道長は関白就任を辞退したました。理由は道長は内覧の座にいれば政治に関与できると考えていたのです。このように、2人は役職関係で揉めていました。

2.一帝二后状態になる

三条天皇には21年間も付き合いのある娍子がいました。三条天皇は娍子を寵愛していました。ですが、道長は自分の次女こと姸子と三条天皇を結婚させようとしました。三条天皇からしたらふざけるなとは思うでしょうね。ただ、姸子の方が道長という後ろ盾があるため姸子が三条天皇の中宮となりました。三条天皇はこれで折れればまだ対立にはならなかったと思われます。ですが、彼は娍子に重きを置きたいからなのか姸子が中宮になってから2ヶ月後に娍子を皇后にしました。これは一帝二后状態ですね。もちろん、道長は許すわけないです。

道長の攻撃

道長に意見を言った三条天皇は道長から攻撃されます。道長からしたら権力者の自分に逆らうなと思いますもんね。ただ、道長の攻撃はなかなかなものでした。ですので、そのことをこれから話しますね。

1.参内の日程で攻撃

皇居に入ることを「参内」と言い、皇后の初めて参内は朝廷内の一大行事でもあります。そのため、多くの人が集まり華やかに行われるのが一般的でした。その際に三条天皇の最愛の人こと娍子の参内は1012年4月27日に決まります。その際に道長は三条天皇に嫌がらせをします。嫌がらせの詳細としては道長の次女である姸子は1012年2月に中宮となったものの未だに皇居内には入っていませんでした。そこで、姸子の参内の日をわざと娍子参内と同じ4月27日にします。これは参加者からしたら困りますね。そんな中道長は姸子の方に行けと促しました。もちろん参加者は道長の権力に逆らってしまうことを恐れ姸子の参内にしか参加しませんでした。

2.娍子の参内は悲惨?!

本来華やかな皇后の参内ですが娍子の参内は惨めなものでした。まず、大臣級の人が一切集まりませんでした。通常ならば傘下しますがみんなして道長に恐れていたため娍子の参内には参加しなかったそうです。そのため、三条天皇は大納言である藤原実資という人物に参内の主催をお願いするという状況でした。本来ならば実資は姸子の参内に参加する予定でした。ですが、実資は状況を察ししょうがなく娍子の参内に参加することにしました。 さらに、大臣級だけでなくそもそも参加者が娍子の参内に集まらなかったそうです。藤原実資が呼びかけをしてもダメだったとか。これは三条天皇と娍子のメンツがないですね。もちろん、2人とも道長を恨みました。

三条天皇の最期

結論から言うと、この対立で三条天皇は負け天皇の権威を譲位することになってしまいました。ではなぜ争いに負けてしまったのか?

1.姸子が女の子を産む

1013 年に道長の次女こと姸子が三条天皇の子供を産みます。その時産まれたのは女の子でした。この事実が。三条天皇を不利にさせました。もしここで男の子が生まれれば将来の天皇をその子にすることができます。そのため、三条天皇と道長の思惑は一致するという形で関係の改善が図られたかもしれません。ですが、姸子が産んだのは女の子のため道長は三条天皇を譲位させて自分は外祖父として権力を固めてしまいたいという考えに至りました。この事実は道長には得えあるものの、三条天皇からしたら絶望でしょうね。

 

2.三条天皇の病

いくら権力者である道長と言っても三条天皇に退位を迫ることは立場上できませんでした。それくらい天皇の権威というものは大きかったんでしょうね。ただ、そんな時に三条天皇は1014年に三条天皇は眼病を患ってしまいます。これは道長にとってはお得な話です。三条天皇はこの眼病により天皇の政務処理能力が疑問視されるようになりました。そこで、道長は眼病を切り口として三条天皇に対して露骨に退位を促すようになっていきます。そのため、三条天皇はいずれは退位することになりました。

 

2人の対立はどのような影響を与えたのか?

少なくとも言えるのはこの対立によって天皇の権威が弱くなったことは露呈されましたね。それだけ道長の権力はその時がピークだったんでしょう。そんな時に対抗する三条天皇もなかなかです。だからって、天皇の力がそのまま堕落したわけではないです。三条天皇の孫こと後三条天皇が院政という政策を取ることで天皇の力は戻ってきたそうです。

まとめ

三条天皇と一条天皇は考えが逆ですね。一条天皇の場合は色々思うことはあったかと思われます。定子の立場が変わった時なんて一条天皇はいい思いをしていなかったかと思います。ただ、一条天皇はそういう思いはあったとしても道長と上手くやることを優先しました。

一方で、三条天皇は違います。どんなに道長が権力があっても理不尽と思ったことに関してはちゃんと主張しています。また、三条天皇は天皇の力を取り戻したいから道長と戦いました。平安時代は身分社会なのに対抗するって三条天皇の度胸に尊敬します。だからこそ、結果はどうであれ私は三条天皇の行動を評価したくはなります。以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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