どうも、りかちゅうです!戦国時代って実は茶の湯が流行ってたんですよね。意外ですよね。戦ばかりの時代にお茶をするなんて。実はその当時、茶の湯は政治的にも使われていました。信長や秀吉はもちろんのこと、松永久秀や荒木村重なども茶の湯に励んでいました。それもあって、とある茶人が有名になっていました。それは千利休です。彼は茶道を広めるだけでなく政治的なものにも手をつけてたとか。一体何者なのか?この記事にて話しますね!
千利休のプロフィール
千利休は茶道界では有名です。教科書にも載っています。ただ、謎な点もあるのでまずはプロフィールから!

名前 千利休
「利休」の名は平民の身分だった千利休を御所に上げるために天皇が与えたものです。
生年月日 1522年
没年 1591年4月21日
備考
茶道を通じて信長や秀吉の側近となり政治的影響力を持った人物です。最後は秀吉の逆鱗に触れて切腹を命じられ無念の生涯を閉じます。ただ、千利休による茶道の教えは現代でも受け継がれています。
千利休の人生
以上が千利休のプロフィールです。では、彼はどんな人生を歩んだのか?
1.生い立ち
千利休は1522年に和泉国堺で魚問屋を営む田中与兵衛と月岑妙珎の子として生まれました。千利休の幼名は与四郎です。ちなみに、千利休のおじいちゃんこと田中千阿弥は8代将軍の足利義政のお茶友達であったことから千利休は幼い頃から茶に触れていたそうです。
ただ、本格的に活動したのは17歳になった頃です。そこから茶の湯を習い始め北向道陳や武野紹鴎に師事していたそうです。その際に千利休は法名を「千宗易」、号を「抛筌斎」と名乗りました。その後、千利休は茶の湯の世界に熱中し23歳の若さで茶会を成功させるなど才能を発揮しました。それと同時に千利休は堺を実効支配していた三好家の御用商人となるなど商売にも力を入れ多くの財をなしたそうです。
2.信長に仕える
千利休が堺で茶の湯と商売に励んでいた時に信長が足利義昭を奉じて上洛しました。1568年のことです。その際に信長は都に近くかつ商業の中心地として栄えていた堺に目を付け直轄地としました。その時堺では茶の湯が流行っていました。信長がこれに着目し千利休が信長の前で茶をたてました。その時に千利休の腕前が信長に認められ、茶頭として起用され信長の茶会を取り仕切るようになりました。さらに、信長は今井宗久と津田宗及と共に千利休を茶頭に抜擢します。
3.秀吉の元で出世
1582年で本能寺の変で信長が亡くなると千利休は秀吉の茶頭に迎えられます。秀吉は信長以上に茶の湯の政治利用に熱心でした。そのため、千利休は秀吉の側近として茶室の設計や茶器の鑑定、重要な茶会のプロデュースなどに従事するなど秀吉に貢献しました。ちなみに、1585年に秀吉が関白就任の返礼に、正親町天皇の前でお茶をたてた際にも利休が場を仕切りました。
このように、御所での茶会を成功させた千利休の名声は全国的に広まりました。それだけではなく、秀吉は千利休を相談として扱うようになり最終的に千利休は3000石を領するほどに出世しました。その影響で全国の大名が千利休に弟子入りしたそうです。
4.秀吉との対立
秀吉の嫡男である鶴松が病気で亡くなった辺りから秀吉と千利休の関係は悪化していきます。要因としては千利休の政治的影響力が強くなるにつれこれを危惧する声が豊臣政権内で上がり始めたことです。その影響で千利休は次第に孤立していきました
そして1591年に千利休は秀吉の逆鱗に触れ堺に蟄居を命じられます。原因は大徳寺の山門に飾られた「利休の木像がきっかけ」とする説が特に知られています。どうやら、山門の改修資金を援助した千利休への感謝の気持ちから大徳寺の住職はその木像を楼門の2階に設置しました。ですが、この木像が雪駄を履いていたため秀吉は「山門を潜る自分を踏み付けにしているも同然」と激怒しました。それ故に、千利休は蟄居になりました。
5.最期
それから、秀吉は千利休に切腹を命じ千利休はそれを受け入れました。その際に千利休は秀吉の使者達に対し「茶室にて茶の支度ができております」とお茶をたてたあと切腹したと言われています。このように、千利休は秀吉との確執がきっかけで最期は切腹に至りました。ただ、確かな理由は分かってないです。千利休が茶器を不当に高い値段で売り付けていたことを制裁した説や千利休は実はスパイだったから秀吉が締めた説など色々あります。
千利休の逸話
千利休にはいくつか逸話があります。ですので、少しだけ紹介しますね!
1.秀吉との関係
農民出身の秀吉は芸術や文化の知識に乏しく優れた芸術的センスを持つ千利休を頼もしく感じていました。実際に、秀吉が千利休のセンスに驚かされた逸話がいくつか残っています。有名な話が庭の朝顔にまつわる出来事です。
千利休の屋敷の庭に美しい朝顔がたくさん咲いていると聞いた秀吉はぜひ見たいと屋敷を訪れます。ですが、庭に行ってみると朝顔は一輪も咲いていません。この状態のまま茶室に入った秀吉の目に映ったのは床の間に一輪だけ飾られた立派な朝顔でした。なんと、千利休は庭の朝顔をすべて切り取り一輪だけ残すことで花の美しさを際立たせたのです。この千利休の大胆さと美を追求する姿勢に秀吉は大変感動したと言われています。
2.茶室へのこだわり
千利休は自分が設計した茶室に「にじり口」と呼ばれる狭い出入り口を付けていました。入り口を狭くしたのは茶室の中ではすべての人は平等であることを示すためらしいです。ちなみに、にじり口は60〜70cm四方しかなく姿勢を低くしなければ通れません。なぜならば、どんなに偉い人でも茶室に入る前に刀や装飾品を外し、一度頭を下げることにさせたいからです。
また、利休の茶室は、2~3人入っただけでお互いの体が触れあうほどの狭さです。利休は亭主(茶の湯の主催者)と客が身分を忘れ、普段よりも近い距離で向き合ってこそ、本当に心が通い合うと考えていたとされています。
まとめ
千利休が切腹して最期を遂げたのは中学の頃から知っていました。きっかけは「天地人」ですね。あのシーンで千利休と秀吉のに確執があったことを知りました。あの時もなんで対立したのかはピンと来なかった感じですけどね。それくらい彼の最期は謎めいていることになりますが。まあ、文化人が政治的なことに入り込むのは厄介でしょうね。ただ、文化的なことで見るなら彼のおかげで現代の茶道につながっている部分はあるのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。