どうも、りかちゅうです!秀吉と勝家は信長が亡くなってから対立が激しくなりました。清洲会議を機に秀吉の立場が強くなったことがきっかけですね。あと、秀吉に関しては完全に自分のものにしたいという気持ちがあったから勝家は嫌だったのかなと。ただ、そのバトルは激化して賤ヶ岳の戦いに進展してしまいました。結果は秀吉の勝ちです。ただ、それまでの経緯が長いのでこの記事にて話しますね!
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賤ヶ岳の戦いとは
賤ヶ岳の戦いとは1583年に秀吉と勝家が北近江の賤ヶ岳で争った戦いです。本能寺の変で信長が亡くなった後、十兵衛を討ったことで存在感を高めた秀吉とそれに反発する勝家などの家臣との対立が表面化したことがきっかけです。秀吉に反発したのは勝家だけではないです。信長の三男こと織田信孝、滝川一益も反発しました。ですが、勝家側は負けました。一方で秀吉はこの戦さを機に信長の後継者としての地位を確立しました。
清洲会議
賤ヶ岳の戦いの戦いのトリガーの1つでもあるのが1582年6月27日に開催された清洲会議です。まずはそこから話しますね!
1.後継者決め
清洲会議では織田家の後継者と遺領の配分を決めました。参加者は勝家、秀吉、池田恒興、丹羽長秀がメインでした。それで、清洲会議にて後継者は誰が候補になったのか?まず秀吉は信長の嫡男の織田信忠の子である三法師を推挙しました。三法師はその当時まだ3歳です。一方で勝家は織田信長の三男である織田信孝を推しました。もちろん、二人は対立しました。ただ、丹羽長秀も池田恒興が三法師を推した結果、三法師が織田家の後継者になりました。
2.遺領の配分
秀吉主導で行われました。この配分で秀吉は長浜城を勝家にあっさりと譲りました。実は長浜城って秀吉が初めて入手したお城です。しかも、信長の「長」の字をもらって「今浜」から「長浜」に改名した城ですよ?それを人に与えるって何事となりますよね?逆に秀吉は播磨国、山城国、丹波国、、河内国をゲットしました。三法師は近江坂田郡と安土城なのでそれもセットです。これ見ても秀吉が激アツなところゲットしましたね。十兵衛を討ち取った功績は偉大ってことですね。
要するに、秀吉は清洲会議を機に織田家での影響力と発言力が増大していきました。
一方で勝家は二番手に後退しました。勝家からしたら面白くないからこそ秀吉への不快感が募っていくのでした。まあ、三法師を後継者にしてる時点で秀吉が乗っ取ってるようなものですからね。
清洲会議の後の秀吉と勝家
もちろん関係悪化です。そこら辺も話しますね!
1.双方味方探しをする
清洲会議が終わってから秀吉は信長の葬儀を延期してまでも山崎の戦いがあった天王山に山崎城を作りました。これアウトなんですよ。実は清洲会議で新たな城を築かないという取り決めがあったんです。なのにです。さらに、秀吉は周辺の大名や織田家家臣を味方に付けていきました。一方で勝家も失脚していた滝川一益を味方にしたした。さらに、秀吉を毛嫌いしていた信長の妹であるお市の方と結婚したり、織田信孝と結束したりしました。どちらとも譲れない争いになってますね。
2.勝家が対抗したものの
その後、勝家は秀吉が織田家家臣と私的に同盟を結んだと諸大名に弾劾する書状を送付しました。一方で秀吉は信孝が三法師を手元から離さないため清洲会議の決定に違反していると信孝と勝家を弾劾しました。双方を弾劾するってどうなるんだってところですね。
そんな中、1582年10月15日に信長の葬儀が京の大徳寺で執り行われました。その際に秀吉の養子こと豊臣秀勝(信長の四男)を喪主にし秀吉は信長の位牌を手にして葬儀に参加しました。このように、秀吉は信長の後継者であることを世間にアピールすることで自身の立場を強化することに成功しました。
3.時間稼ぎという名の交渉
1582年11月に清洲会議で越前を安堵され長浜城を配分された勝家は長浜城ではなく越前の北ノ庄城を居城としていました。ですが、越前は冬になると雪深くなり行動が制限されてしまいます。そのため、戦が起こると不利です。そこで、勝家は時間稼ぎのために秀吉に対して見せかけの和睦交渉を働きかけました。その際に勝家は秀吉のもとに前田利家、金森長近、不破直光の3名の使者を派遣しました。
秀吉はこの和睦は偽りであることを見抜きました。ですかま、応じるふりをして使者3名に調略を仕掛けたのです。3名は完全には調略されなかったものの、秀吉の勝利に大きな影響を及ぼすことになります。
4.戦フラグ
そんな中、勝家は紀州の雑賀衆を味方に付けた、長宗我部元親と同盟を結んだりと秀吉を包囲する準備を始めました。そして、清洲会議から半年が経った12月2日に秀吉は越前にいる柴田勝家が雪で身動きがとれなくなったのを待っていたかのように和睦を破棄し勝家に譲った長浜城を攻め奪還しました。さらに、秀吉は信孝から三法師を引き離すためそのまま美濃へと進み岐阜城へ行きました。その影響で12月20日に信孝は降伏し三法師を秀吉に引渡しました。
5.勝家も動く
1583年1月に伊勢の滝川一益が挙兵し、亀山城、峯城、関城、国分城、鹿伏兎城を調略し長島城で篭城しました。これで秀吉を迎え撃つ体制を整えました。
一方で秀吉は諸勢力への調略などを行っていたため京へ兵を引いていたものの。2月には伊勢に侵略を開始し滝川一益が調略したそれぞれの城に攻撃を開始しました。そして、2月20日に秀吉軍は国分城を攻め落とし長島城を攻撃しました。ですが、滝川一益の抵抗は手強く容易に攻め落とすことができません。その状況を知った勝家は、居ても立っていられず挙兵しました。
賤ヶ岳の戦いの戦況
賤ヶ岳の戦いは初めは勝家の方が優勢でした。ですが、前田利家が勝家を裏切ったり勝家側の人が調子乗ったりして秀吉が勝ちました。では、どんな戦況だったのか?
1.秀吉が敵に挟まれる
3月12日に勝家は利家佐久間盛政らを率いて3万の軍勢で北近江に布陣しました。一方で秀吉は長島城からの襲撃を避けるため1万の兵を伊勢に置き3月19日に5万の兵を率いて近江の木ノ本に布陣しました。両者とも直ぐに攻撃をすることなく、陣地や砦の構築を行っていました。
ですが、秀吉軍は伊勢の滝川一益に南から、近江の柴田勝家に北から挟み込まれた形になりました。その状況を信孝がこれを知り、彼は伊勢の滝川一益と結託して4月16日に美濃から挙兵しました。北近江、伊勢、美濃の3方面からの攻撃を守る必要に迫られた秀吉は守備隊を近江に残し4月17日に美濃へと進軍したのですが、揖斐川の氾濫によって足止めを受けたため大垣城に入って情勢が変化することを待ちました。
2.佐久間盛政が調子乗る
これを好機と見た勝家は4月19日に佐久間盛政に出陣するよう命令。佐久間盛政は中川清秀が守る最前線の大岩山砦を攻撃し陥落しました。勢い付いた官兵衛を攻撃しましたが堅い守りに陥落をあきらめ岩崎山に布陣していた高山右近を攻撃し撃破したのです。一方で賤ヶ岳砦を守っていた秀吉軍の桑山重晴は戦況が劣勢と判断し4月20日に撤退を開始しました。ここで深追いは危険と判断した勝家は佐久間盛政に撤退するよう命令したものの、調子付いた佐久間盛政はそれに従わず敵陣に留まり続けます。
ちょうどその頃、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀は秀吉の前線が崩されたことを知り参戦を決意しました。その際に撤退し始めていた重晴と遭遇したため合流して賤ヶ岳周辺にいた佐久間盛政の軍勢に攻撃を仕掛けて撃破し賤ヶ岳砦の奪還に成功しました。
3.秀吉のミラクル技
4月20日大垣城で情勢の変化を待っていた秀吉は各所の砦が陥落していくのを知り賤ヶ岳へ行軍。その際にミラクルな技をやります。なんと、午後2時に大垣を出発した秀吉軍は午後7時には賤ヶ岳付近に到着していたのです。52kmをわずか5時間で走り抜きましたこれを美濃大返しと言います。一方で佐久間盛政は秀吉が戻ってくるのを知っており早くても翌日であろうと高を括っていました。ですが、すでに到着してた秀吉軍に包囲されてしまいました。
その影響で4月21日未明、ついに佐久間盛政は撤退を開始しました。それを知った秀吉軍は追撃したことで激戦になりました。そこで、秀吉は標的を柴田勝政に変更しまさた。ただ、それに佐久間盛政が加わり大激戦となったそうです。
4.勝家の突然離脱
秀吉軍と柴田勝政・佐久間盛政が激戦を繰り広げる中、茂山の背後にいた前田利家が突然戦線を離脱しました。利家は佐久間盛政の後方に位置していただけにこの行動は連鎖反応しました。なんと、その後に続いていた金森長近と不破直光も撤退しました。なんなら、個人の逃走も増え勝家側からしたら歯止めが効かなくなった状態になってしまいました。そこで、余呉湖の北側に陣を置いていた秀吉軍の木下一元や木村隼人正の部隊が佐久間盛政を攻撃しついに総崩れとなりました。
5.勝家の自決
秀吉軍は残った佐久間盛政の部隊を撃破したした。そして、秀吉軍の全ての部隊が勝家本隊に殺到し集中攻撃を仕掛けました。このときの勝家本隊はわずか3000ほどです。さすがの勝家もこれを支えきれず越前の北ノ庄城に逃走しました。これで賤ヶ岳の戦いは秀吉が勝利しました。
そして、2日後の4月23日に戦線離脱した利家が秀吉軍の先鋒として北ノ庄城を包囲したのです。このとき勝家はわずか200の兵とともに北ノ庄城に立て籠もり防戦したとのの天守へ追い込まれてしまいました。それ故に勝家は天守に火を点けお市の方と共に自害し北ノ庄城は落城しました。これで秀吉は権力を固めたのです!
賤ヶ岳の七本槍!
賤ケ岳の七本槍とは賤ケ岳の戦いにおいて、豊臣軍側で活躍した7人の武将のことです。この7人に数えられる武将は糟屋武則、片桐且元、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、福島正則、脇坂安治です。この7人には秀吉から感状と領地が与えられました。特に福島正則の軍功は目覚ましく7人の中でも一番多い5000石の領地が加増されました。理由は柴田勝家の家臣であった拝郷家嘉を一番槍・一番首で討ち取ったからです。その他の6人は一律3000石の領地が加増されています。
まとめ
初めは勝家側の方が優勢なのは知らなかったです。秀吉が勢いよく勝っちゃったじゃないんだなと。賤ケ岳の七本槍がいたから尚更のこと。ただ、佐久間盛政が調子に乗ったことが勝家側に仇になったり利家が寝返ったこと(前々から考えていた気がします)がきっかけで秀吉が勝ちましたね。おそらく、秀吉からしたらそこら辺も計算済みだったのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。